本書は、敗戦直後に宮内庁職員が天皇からの聞き取りという形式で作成したもので、当時の東京裁判対策(天皇免責対策)と関連がある。
軍に翻弄される、無力な平和主義者の天皇という図像について検討するきっかけとなる本。
・日中戦争の拡大、対米開戦には一貫して反対していた。
・しかし、立憲君主なので口出しはできない。
・口出しした場合、クーデタがおきてさらに事態が悪化するだろう。
・だから対米開戦はやむを得なかった。
これらの主張が事実と異なっているということが、『昭和天皇の終戦史』で指摘されている。具体的には……
・満州権益は、事変からしばらくして容認するようになり、さらに上海事変や日中戦争では早期終結のために増派をけしかけている。
・日米開戦後は一撃講和を唱え、また原爆投下後は国体護持のため本土決戦を「当然だ」と主張した。
・田中義一への叱責を始め、首相・閣僚の指名に関与し、軍の人事に関与していた。
・クーデターとは別に、皇室に責任が及び、天皇制がおびやかされることを最も懸念していた。
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他人事発言および、荒ぶる国民が戦争を招いたとする発言について。
――実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追い込んだものである。かくなった以上は、万一の僥倖に期しても、戦った方が良いという考えが決定的になったのは自然の勢といわねばならぬ。もしあの時、私が主戦論を抑えたならば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ちながら、むざむざ米国に屈服するというので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデタが起こったであろう。実に難しい時であった。
次は別の本からの引用。
――『わたしの国民はわたしが非常に好きである。わたしを好いているからこそ、もしわたしが戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民はわたしを精神病院か何かにいれて、戦争が終わるまで、そこに押しこめておいたにちがいない。また、国民がわたしを愛していなかったならば、彼らは簡単にわたしの首をちょんぎったでしょう』
新聞が戦争を煽り、それを国民が買って読み熱狂したことが確認されている。
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政治と戦争指導に関与しておきながら、敗戦後われ関せずの態度をとったとすれば無責任な君主である。
当時の政府に一貫して反対していたが、立憲君主としての役割を果たすため戦争を黙認し、また要求に応じて神社参拝や檄文作成を行っていたとすれば、無力で無能な君主である。
天皇自身の、敗因についてのコメントや、「発狂する国民を抑えられない」発言を検討すると、かれに積極的に責任を担おうという精神は一切なかったようである。
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田中義一叱責以降、政治介入を控えたと書く一方で、特に軍に対しての指示や命令が頻繁になされている。戦争の要所要所で継続を主張している。
――……私は参謀本部や軍令部の意見と違い、一度「レイテ」で叩いて、米がひるんだならば、妥協の余地を発見出来るのではないかと思い、「レイテ」決戦に賛成した。
――私は陸海軍が沖縄決戦に乗り気だから、今戦を止めるのは適当ではないと答えた。
――沖縄で敗れた後は、海上戦の見込みは立たぬ、唯一縷の望みは、「ビルマ」作戦と呼応して、雲南を叩けば、英米に対して、相当打撃を与え得るのではないかと思って、梅津に話したが、彼は補給が続かぬといって反対した。
――12日、皇族の参集を求め私の意見を述べて大体賛成を得たが、最も強硬論者である朝香宮が、講和は賛成だが、国体護持が出来なければ、戦争を継続するかと質問したから、私は勿論だと答えた。
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付録の座談会が示すとおり、昭和天皇に対する解釈は、「立憲君主であり実権はなかったので責任はない」とする主張と、「実際は指揮権を持っており戦後責任逃れした」とする主張とに分かれる。
秦郁彦は、後者の立場に立ち次のように言う。
――ぼくは、明治憲法の解釈について神話ができていたような気がするんです。昭和天皇は実は命令していた。ところが下が言うことをきかない。それを立憲君主制云々という話に戦後の研究者がしてしまったのではないか。
半藤一利の発言。
――……ぼくはこれを読みまして、天皇陛下は大元帥としての立場をよくわきまえているということがよくわかるんです。たとえば上海事変の折、白川大将には、奉勅命令によらず、私が命じたとある。
また、天皇の人物評は木戸幸一からの吹込みが多かったようである。
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◆所見
責任のあやふやな体制で国家運営が行われたことは失敗の原因の1つと考える。
そしてトップや指揮官が責任を取らない性質は今もしっかりと受け継がれている。
天皇の戦争指導の細部について調べる必要がある。