うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ヒンドゥー教』森本達雄 その2

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 インドの浄・不浄観には、日本をはじめとする他の文化と共通する点もある。

 ヒンドゥー教は死、血、屍を特に忌み嫌う。女性に対する蔑視は、生理、月経、出産等の血を伴う現象にも由来するという。

 インドにおいて清浄とされるのは水、火、クシャ草、牛等である。水に対する価値観の例としてガンジス河と沐浴の慣習をあげている。牛の信仰は牛だけでなく牛糞や牛の尿にも及ぶ。

 牛の信仰を司るクリシュナは、ヴィシュヌの化身とされる。しかし、クリシュナは元々バラモン教と対立する存在である。この神は牛飼いの身分で生まれ、シュードラ、原住民に支持されていた。やがてヒンドゥー教の大衆化に併せて吸収され、庶民に親しまれる存在となった。

 なお、神聖視される牛はコブウシのことを言い、街中をうろついている水牛は不浄な動物、死神ヤマの乗り物として逆に忌み嫌われるという。

 牛の殺害はバラモン殺害に等しいが、水牛は外国人やムスリム向けの食糧として屠殺されている。

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 ヒンドゥー教は人生における通過儀礼を定めており、厳格な家は今でも実践する。

 女性は、ヴェーダの供犠や学習から除外されるため、宗教的にはシュードラである。男尊女卑の伝統はこの規定から生まれた。

 女性から離婚することはできず、また離婚した女性、寡婦となった女性は穢れとして生殺しにされるため、殉死の慣習が生まれた。

 夫の火葬に飛び込んで焼死するサティの風習はインド近代化の過程で禁止された。

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 ヒンドゥー教では人生を4つの時期に分割し、家長として活動した後に森の賢者になり、解脱すべきであると説く。この教えが実践できるものはまれだが、それでも社会的地位を得た人間がやがて乞食となって聖地に向かう例があるという。

 家長として自分に与えられた職務を果たす上で、3つの人生目的……法(ダルマ)、実益(アルタ)、愛欲(カーマ)の追求が行われる。

 タゴールは林住・遊行期における境地を次のように表現する。

 ――こうしてついに、肉体の衰弱と、欲望の凋落が来る。魂はいま、豊かな経験をつんで、狭い生命から普遍的な生命へと旅立ち、普遍的な生命に自分の蓄積した叡智をささげ、自らは永遠の生命との関係に入る。それゆえに、最期に衰弱した肉体に死の時が訪れようとも、魂は無限なるものへの期待にふるえつつ、別離をいとも自然なことと観じ、悲嘆にくれることはない。

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 サードゥ(出家苦行者)は各地を放浪し、または聖地の宿舎に寝泊りして生活する人物のことである。

 かれらの多くはインチキ霊能師や詐欺師だが、中には信念を持っているものもいる。巷で見かけるサードゥは俗物ばかりというが、それでもヒンドゥー教徒たちは、かれらに対し一定の敬意を払ってきた。

 ヒンドゥーは多様な信仰形式を許容する。

 アゴール派は様々な破戒行為で名をはせた。

 

 ――N・チョウドリーによると、「大反乱中、この派の行者たちが軍隊の後に付き従い、戦死した兵士たちの死肉を食っていたという記録も残っている」そうである。

 

 以後、本章では悟りにいたるためのヨガの教義について説明される。ヨガとは本来解脱するための方法を意味する。

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 再生族と一生族……再生族にはバラモンクシャトリヤ、ヴァイシャが該当する。かれらは輪廻転生を定められている。

 シュードラや不可触民は一生族であり、かれらの命は一回きりである。

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 ヒンドゥー教を検討するにあたり、ガンジータゴールが多く引用されている。ヒンドゥー教は寛容性や柔軟性を持つとともに、身分制度や女性蔑視等の深刻な悪習も存続させてきた。

 現代のヒンドゥー教を取り扱う上で、2人の思想家は避けて通れないようだ。

 

 本書は宗教に焦点をあてたものだが、インドの政治、インドとパキスタンとの対立についても関心がわいた。

 

ヒンドゥー教―インドの聖と俗 (中公新書)

ヒンドゥー教―インドの聖と俗 (中公新書)