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『昭和天皇の終戦史』吉田裕 その1

 1990年に公開された『昭和天皇独白録』を史料として、「力を持たない天皇」像に対して疑問を投げかける。

 古川隆久昭和天皇』とはまったく違った像が描かれている。

 

 1990年に発見された『昭和天皇独白録』は、終戦直後の46年における天皇の回顧録の形をとっている。

 当該『独白録』をめぐっては、「戦争責任回避のための政治的産物」だとする説と、「平和のために苦悩する君主の純粋な回顧録」だとする説とに解釈が分かれている。

 著者は、東京裁判に関する被疑者たちの調書記録を調べる中で、『独白録』が明白に政治工作の結果物であることを認識した。

 ――以下、本書では、戦前・戦後の天皇をめぐる政治史を視野に入れながら、敗戦直後の政治情勢のなかで「独白録」がどのような位置を占めているのかを具体的に検討する。

 

 1

 軍部との協調を進めた宮中勢力として木戸幸一近衛文麿があげられている。このうち近衛は、日米開戦後は一貫して和平の道を探り続けた。アメリカに対して勝つのは不可能だと確信していたためである。

 しかし天皇は軍部寄りの姿勢をとり、日米開戦やむなしを主張した。また、天皇は東条内閣を強く支持した。

 ポツダム宣言受諾をめぐっては、国体護持を死守することが条件となった。

 ――「大御心にそい奉る事もなし得ず、自ら矛を納むるの止むなきに至らしめた民草を御叱りもあらせられず、かえって「朕の一身はいかがあろうとも、これ以上国民が戦火に斃れるのを見るのは忍びない」と宣わせられ、国民への大慈大愛を垂れさせ給う大御心の有難さ、忝さに、誰か自己の不忠を省みないものがありましょうか」……

 自分たちが始めた戦争をやめるにあたり、「おまえたちがやめないから、やむなく止めてやった」と言える神経は素晴らしい。

 近衛は東条英機戦争責任を負わせることで天皇を免責すべきと明確に考えていた。

 著者いわく、近衛は昭和天皇個人に責任を負わせてでも、皇室を守ることを意図していたという。譲位や出家はその1案である。

 

 2

・陸軍を中心に考えられていた、軽易な処罰で先手を打つ「自主裁判」構想は挫折した。

東久邇宮稔彦の「一億総懺悔論」は浸透せず、かえって国民の反感を買った。GHQによる戦犯被疑者の逮捕はむしろ歓迎された。

 敗戦の責任は最高責任者ではなく1億日本人にあるというもの。全員が悪いということは、誰も悪くないということ。

・近衛は天皇の責任を追及する方向に動いていたが、自らが戦犯容疑者となると自決した。東京裁判では、連合国は対米開戦だけを焦点にするはずだと近衛は考えていた。実際には日中戦争含むアジアへの侵略戦争が問題となった。

 

 3

・宮中はGHQに対して天皇免責工作にとりかかった。

・公然支持のもと、安藤明、田中清玄等の民間右翼が情報収集活動をおこなった。

高松宮は独自の天皇退位工作を進めており天皇の怒りを買った。

 

 4

 天皇免責の政治的決断をしたGHQは、宮中(東久邇宮ら皇族の多数)から天皇退位論が浮上したことに衝撃を受けたという。

 1946年、天皇の処分がまだ不確定だった時期に、GHQのフェラーズ准将の助言によって、『独白録』の作成が決定された。

 『独白録』作成に関わった人物……寺崎英成や松平康昌らは、GHQへの工作、接待攻勢、東京裁判での発言統制に関わっていた。

 ――……「5人の会」の活動の実態からみても、「独白録」の政治的性格は明白だと言うべきだろう。すなわちそれは、東京裁判対策を強く意識しながら、直接的にはGHQに対して、天皇戦争責任がないことを「論証」するために作成された政治的文書である。

 天皇免責は宮中、GHQの合意であり、双方が『独白録』の作成を急いだ。

 

[つづく] 

昭和天皇の終戦史 (岩波新書)

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