1960年代に書かれたアメリカのメディアと国民の性質に関する本。メディア論の古典で、現代にも通じる指摘事項が含まれている。
著者いわく、アメリカ人は「過度の期待」に支配されている。
かれらは世界や人生、自己にあまりに多くを期待しすぎて、自分たちを欺く幻影をつくりだし、生活している。そうした幻影の媒介となるのが、新聞、テレビ、セレブリティその他である。
メディアの発達(19世紀の印刷革命Graphic Revolution)によって、わたしたちの経験がまやかしで埋め尽くされつつあるという考えが根底にある。しかし、時代が下るにつれて、わたしたちの人生がくだらなくなっていったのか、または、昔から質としては変わらず、ただ単にメディアやビジネスによる雑音が増えたのかどうかは判断できない。
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1 ニュースの集積から制作へ
アメリカにおいてニュースは驚異的な発達を遂げた。新聞、ラジオ、テレビといった媒体技術も発展したが、同時にニュースの性質も変化した。
本来、ニュースとは新しい重要な出来事を伝えるものだが、ニュースに携わる者たちは空白を埋めるためにやがてニュースを作るようになった。
著者は"Pseudo-event"、疑似イベントを次のように定義する。
・疑似イベントは誰かによって企画立案され、引用される。典型としてはインタビューの形式をとる。
・報道されるためにつくられる。
・疑似イベントと現実との関係はあやふやであり、起こった事実を単純に伝えるものではない。
政府や役所、企業等によるニュースリリースについて説明される。優れた政治家は報道を活用し、報道の側も、政治家による疑似イベントを必要とする。
インタビューやクイズショウは、人びとが政治家に求める能力を変質させていく。
テレビ黎明期に書かれた本であるためか、大統領選の論争番組や新聞に関する指摘など、いまとなっては日常的な光景になってしまったものもある。
しかし、疑似イベントが受容者と提供者双方から求められている点、政治家と報道が共存関係にある点等、現在にも通じる観察が多い。
疑似イベントはプロパガンダと異なり、過度の単純化や扇動を促すものではない。むしろ、物事を複雑化させ、事実の定義をあいまいにする。
2 英雄からセレブリティへ
疑似イベントはニュースだけでなく人物においても適用される。本章では、英雄であることと有名であることとの関連について考える。
英雄がいなくなり、セレブリティがとってかわった。
彼らは有名であることがその存在理由である。人びとも、民衆(folk)から大衆(mass)へと変質した。
民衆は自らの文化によって英雄を作り出したが、大衆は、与えられたセレブリティのイメージを受け取るだけである。かれらは自分たちに近い、ただし有名であるだけの存在を、一方的に待ち受けるだけである。
メディアが生み出した典型的なセレブリティの代表例としてリンドバーグがあげられる。
現代においては、真の英雄は匿名の人たちである。無名の労働者、看護師、母親、そういった類の人びとを、著者は英雄だと考えている。
[つづく]
The Image: A Guide to Pseudo-Events in America
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