武器の開発について。
兵器局、各軍種の調査官が核心となって、火砲、小銃、機関銃、通信機器、戦車、毒ガス兵器の改良が行われた。ヴェルサイユ条約で兵器は厳しく制限されていたが、共和国軍は規制をかいくぐり、高水準の兵器の開発に努めた。
・兵務局T3による海外兵器情報の収集
・ソ連領内における訓練や実験
兵器開発における唯一の失策は、軍用車両である。多数の会社に開発をさせた結果、規格が統一されず、性能差もバラバラになってしまった。
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戦車戦ドクトリンの発展には、Ernst Volkheim, Oswald Lutzら、現在では無名の将校たちが多大な貢献を果たした。
ドイツは第1次大戦末期には積極的に戦車を活用しており、戦後は特にフォルクハイムが戦車戦に関する著作を発表し軍において受け入れられた。
ドイツ軍が当初戦車を軽視していたというのは誤解であり、フォン・ゼークトは20年代初めに戦車訓練の強化を指示し、また戦車担当士官には優秀な人員を割り当てている。
グデーリアンは戦車戦術で有名となったが、黎明期に貢献したのはかれではなく、前述の士官たちである。本書はグデーリアンの自己顕示欲に言及している。
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フォン・ゼークトは共和国軍の再建にあたり航空戦力を重視した。第1次大戦において、航空戦は唯一、敗戦まで優勢であり続けた。
ゼークトは兵務局の一部所内に空軍の司令部機能を残し、優秀な指揮官やパイロットを登用した。
最大の功績としては民間航空会社の予備軍化があげられる。ヴェルサイユ体制は航空戦力を厳しく制限したため、ゼークトはルフトハンザ航空に空軍の機能を移転し、エーアハルト・ミルヒら航空関係の士官を要職に就かせた。
ドイツ空軍においては、連合国と異なり、戦略爆撃の研究は30年代まで進展しなかった。これは、草創期の航空部隊幹部が皆戦闘機乗りだったためと推測される。
民間飛行訓練センターやソ連領で、多くのパイロットの訓練が行われ、国防軍設立とともに軍へ移籍した。また、多数の飛行機会社に競争入札を行わせ、航空機の性能を向上させた。
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共和国軍を戦略の観点から見直す。
・敗戦直後の課題は、ドイツの内戦と、隣国、特にポーランドの脅威だった。ゼークトは義勇軍を戦力化することには否定的で、一部の義勇軍を国境警備隊として活用するにとどまった。
・西側国境が常に防御戦略的だったのに対し、東プロイセンについては拡大方針を崩さなかった。
伝統的に、ドイツは東方の領土を拡大すべきであるという傾向が強かった。軍人や政治家にとっては、ダンツィヒやポーゼンを奪われたことが最大の屈辱だった。
・政治的に先鋭化し、武装の貧弱な義勇軍は予備役としては不十分だった。ゼークトは、警備警察(Security Police)を準軍事組織として利用した。
・ラパッロ条約でソ連と秘密軍事協定を結んだことが、共和国軍の高度化につながった。
ソ連とドイツにとって、ポーランドは最大の敵だった。ポーランド、チェコスロヴァキア、ベルギーを支援していたのがフランスである。
戦車戦略はソ連領に建てられたカザン戦車学校において発展した。
・予備役の充実については、郷土防衛隊、黒い共和国軍(秘密裏に軍事訓練を行った)、警備警察と様々な手段を講じたがあまり成功しなかった。
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第1次大戦後、ゼークトは塹壕戦術を無視し、戦場では実践されなかった機械化兵器による機動戦を提唱した。
20年代に描かれた軍隊のイメージが、39年のポーランド侵攻時に結実した。
ドイツ軍の練度や、作戦計画は、当時の諸外国軍人が賞賛している。
・ドイツ軍の優位……組織的な教訓収集と研究、機動戦、協同作戦の追求、高度な訓練等。正規軍の精鋭部隊による短期間の作戦。
・イギリスは低コストでの植民地維持にのみ執着していた。
・フランスは塹壕戦にとらわれ防御政策を選んだ。
・アメリカは計画的な教訓収集や軍の高度化を行わなかった。
The Roots of Blitzkrieg: Hans Von Seeckt and Germany Military Reform (Modern War Studies)
- 作者: James S. Corum
- 出版社/メーカー: Univ Pr of Kansas
- 発売日: 1994/02
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