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うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『クルド人 もうひとつの中東問題』川上洋一

本メモ ◆歴史の本

 クルド人は主にトルコ、イラク、イランの3か国にまたがって居住しており、面積ではフランスに匹敵する。人口は2500万人前後であり、古来から独立闘争をくりかえしてきた。

 宗派は7割強がスンニ派で、残りがシーア派、一部だがキリスト教徒やユダヤ教徒もいる。言語は印欧語のペルシア語に近く、独自の文字を持たない。

 古来遊牧を生業としていたがやがて農業に移行し近年では都市生活者も多くなった。「われらが唯一の友は山々」という格言がある。

 古代ギリシアの時代から優秀な戦闘民族として知られており、ゲリラ戦や山岳戦を得意とした。

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 本書の注目箇所

クルド人は常に支配国に利用され続けてきた。トルコによるアルメニア人虐殺にはクルド人も加担している。

・トルコは強い同化政策をとる国であり、少数民族や言語の存在を認めない。少数民族、少数語について言及することは分離主義として摘発される。過去、多くの活動家や新聞記者、クルド人が殺害されている。

 国連報告によれば「習慣的、体系的な拷問が行われている」。

・トルコ、イラク、イラン、シリア等は、敵国領内のクルド人を支援し、自国のクルド人は弾圧してきた。

クルド人が独立国家を持つ望みは現状では薄い。内陸にあり経済的に貧しいこと、部族主義が強く統一が取れないこと、各国が独立を望んでいないことがその理由である。

 

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 ◆トルコ

 PKK(クルド労働者党)は1978年にオジャランが創設し、80年代を通じて武装闘争を行った。99年にオジャランは死刑判決を受けるが、執行は停止されている。併せて、PKKはトルコ領内での軍事部門を解散させた。

 オジャラン氏は元々マルクス・レーニン主義者だったが、やがて民族解放闘争に移行した。

 トルコのクルド人抑圧を良く思わないEU諸国は、オジャラン氏への死刑判決に反対した。ドイツ、フランス等には多くのクルド人移民がおり、問題が飛び火することを懸念したためである。

 

 ◆イラク

 フセインクルド人を殲滅しようとしていたが、湾岸戦争をきっかけにクルド系の政党PUK(クルド愛国同盟)とKDP(クルド民主党)が選挙で議席を獲得し、クルド地域政府が成立した。

 元々、アメリカはフセイン政権を支援していたが、湾岸戦争を境にフセイン政権が不安定化し、かわって今度はクルド人シーア派に対して援助がなされるようになった。クルド地域政府は、アメリカの方針によって存続している状態だった。

 

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 クルド人の歴史は、トルコ、イラン、イラク等の地域大国と、英米ソの帝国に翻弄されてきた少数部族の歴史である。また、クルド人政党間の抗争もあり、統制された活動ができなかった。

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 かつてクルド人には確固たる民族意識はなく、またトルコ、イラン等の王朝内でも活躍する者が多かった。アイユーブ朝を建てたサラディンクルド人だが、クルド人としてのアイデンティティを主張していたわけではない。

 オスマン帝国時代は緩やかな自治を認められる一方、辺境民族であること、帝国と対立するペルシアのサファヴィー朝との境界に接することから、強制移住や徴用の被害を被った。

 クルド人が民族自治を本格的に志向するのは第1次大戦からである。

 ムスタファ・ケマルトルコ革命を起こしたとき、かれはクルド人戦力を利用した。しかし、トルコ共和国成立後は、強烈な同化政策をとり、「トルコ人」以外が存在することを否定した。当初予定されていたクルド人自治区設立は共和国の成立により反故となった。

 クルド人の存在は抹消され、独自の文化、言語を使用することも取締りの対象となった。第2次大戦後もクルド人の蜂起が続いたがすぐに鎮圧された。

 イランでは1921年にレザ・ハーンがクーデターを起こし王朝を建てた。レザ・ハーンはクルドを弾圧したが、一方でトルコ攻撃のために、トルコ領内のクルド人に対しては支援を行った。

 ――自国のクルド人を抑圧しながら、相手国のクルド人を陰に陽に支援するのは、トルコ、イラク、イラン、シリアのいずれの国でも、20世紀末までごく一般的な形として続いた。

 イランとイラン・クルド民主党(KDPI)……レザ・ハーン王朝に続くパーレヴィ朝もクルド人を弾圧した。1979年のイラン・イスラム革命では、クルド人はホメイニを支援した。しかし共和国が成立するとクルド人は弾圧対象となった。KDPIはイラク領内に追い込まれ、指導者カシムルもイラン政府に暗殺された。

 イラクのクルド民主党(KDP)は1961年ころからゲリラ養成を始め、やがてかれらは「ペシュメルガ」(死に直面する人びと)と呼ばれるようになった。

 ムラー・ムスタファ・バルザニはクルドの部族長で、イラクにおいて独立闘争を指揮したが、米国に依存しすぎたためやがて見捨てられた。またクルド人の内紛・抗争を煽り団結させることができなかった。

 PUK(クルド愛国同盟)のタラバニはスレイマニヤ等の都市を基盤とし、度々、バルザニのKDPと抗争を起こした。

 フセインによる毒ガス虐殺は、イラン・イラク戦争中に発生している。戦争中に約20万人のクルド人が殺害され、戦争終結後も弾圧は継続した。

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 90年代、トルコの大統領デミレルは対クルド強硬策を実施し、大規模な軍事作戦を行った。これに反発したテロが西欧にも波及した。ドイツを筆頭に欧州の各都市でトルコ人施設が襲撃された。

 その後も、クルド人や活動家、報道機関への国家テロが継続している。

 地理的条件や、経済関係から、アメリカや欧州諸国はトルコの人権侵害行為を表立って非難することができない。しかし、トルコがEUに加盟できない理由の1つはクルド人問題にあるという。

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クルド人もうひとつの中東問題 (集英社新書)

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