うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『南京事件』笠原十九司

 本書の目的……東京裁判や南京軍事法廷の判決とは異なる「歴史」として、南京事件の全体像を解明しようと試みる。

 

 1

 1937年7月に盧溝橋事件、8月に第2次上海事変が発生し、日中戦争がはじまった。この月、木更津から発進した海軍機により南京渡洋爆撃が行われた。宣戦布告なしの非武装都市爆撃は明確な国際違反だった。

 当時陸軍は不拡大方針をとっていたが、海軍は爆撃を強行した。理由は、海軍の対米戦に向けた軍備拡大計画と、航空戦力派の思惑である。山本五十六以下海軍内の航空戦力派が、新開発の九十六式陸攻を試験し、また航空攻撃の実績を出すためだった。

 その後、海軍による上海・漢口・杭州・南昌・広州・厦門等への爆撃が続けられ、諸外国や海外の報道機関はこれを非難した。日本のマスコミのみが戦果戦功を賞賛していた。

 

 2

 参謀本部作戦課長石原莞爾は不拡大方針を主張したが、作戦課長武藤らの拡大論に圧倒された。

 ――……石原や板垣征四郎らの「出世物語」が陸軍中央の参謀将校や外地の各軍幕僚多数のあいだに、「軍人の第一義は大功を収めることにある。功さえたてれば、どんな下剋上の行為を冒しても、やがてこれは賞され、それを抑制しようとした上官は追い払われ、統制不服従者がこれにとってかわって統制者になり得るものだ」という軍紀紊乱の気運を醸成した(今村均)。

 松井石根大将は上海派遣軍の指揮を命じられるが、本人は上海居留民保護ではなく、南京攻略と国民政府打倒、新政府樹立を明言していた。しかし、年次が上であり誰も指導できなかった。

 近衛首相は「シナ膺懲」を唱え総動員体制を敷き、マスメディアと国民は熱狂した。同時に天皇も増派による打撃を主張した。

 上海制圧後、武藤章は直接中国に向かい、上海派遣軍に対し南京一番乗りをするよう扇動した。

 派遣軍は予備役・後備役の兵が中心で、将校も高齢者が多く、上海制圧の時点で既に風紀壊乱が問題となっていた。かれらはさらに南京への前進を命じられ、行く先々で犯罪行為をしてまわった。計画外の行動に兵站が追い付かず、戦闘部隊は食糧等を現地調達した。

 

 3

 1937年12月に南京攻略の大命が下された。中支那方面軍司令官松井石根上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦は、兵站機能のない、規律の乱れた軍隊で南京特別市に向かって侵攻した。

 南京侵攻が進むと、近衛首相は自ら打診していたトラウトマン和平工作を切り捨て、講和の可能性を絶った。

 陸軍、政府、国民、マスメディアは、首都機能の既に移転された南京を占領すれば、国民政府が屈服すると考えていた。

 南京は東京、埼玉、神奈川を合わせた程度の広さで、城外にはおよそ150万の農民が住んでいた。

 各集落は日本軍の波状攻撃にさらされ、略奪、処刑、強姦等が行われた。一連の従軍日記の引用は、アインザッツグルッペンの光景と瓜二つである。

 

 4

 南京城市から蒋介石夫妻らが脱出し、後には数十万の市民と、新兵ばかりの防衛隊が残された。

 日本軍が入城するにあたり、規律正しくふるまうよう注意事項が出されたがまったく守られなかった。憲兵は17人しかおらず、7万の日本軍を統制する力はなかった。

 ――近代戦において、軍隊が一般市民の居住する都市を攻略・占領する場合は、非戦闘員へ危害が加えられるのを防止するため、進駐兵力を減らし、不祥事の発生を避ける措置をとるのは指揮官の鉄則である。中支那方面軍司令部が右の注意事項を下達したのは、その危険性を知っていたからであり、さらにいえば、南京へ出撃させた上海派遣軍の軍紀弛緩を承知していたからともいえる。

 松井石根大将入城式を安全に実施するため、城内の残党狩りが行われた。これは兵役年齢の男性をほぼ無差別に殺害し、また民間人も殺害するというものだった。

 難民区には多くの外国人や外交関係者が居住していたが、日本軍はその区域内にもやってきて民間人を連れ去っていった。そうした不法行為が数多く目撃され、本国に通報されている。

 

 5

 松井石根出発後、引き続き捕虜、投降者の射殺、略奪、婦女暴行等が続けられた。

 

 6

 残敵掃討の過程で多数の民間人殺害と婦女暴行が発生し、またある将校が、強姦について調査にやってきたアメリカ大使館員を殴打する事件も発生した(アリソン事件)。

 南京を攻略すれば蒋介石は降伏すると、参謀本部、近衛内閣、天皇、国民、マスメディアは皆確信していた。しかし国民政府は降伏せず、武漢が首都となった。

 南京における日本軍の行為は外交ルートを通じてすぐに広まり、また陸軍内でも規律の乱れが密かに問題視されていたことが高官の日記に記録されている。

 畑俊六教育総監の日記。

 ――支那派遣軍も作戦一段落とともに、軍紀風紀ようやく頽廃、略奪、強姦類のまことに忌まわしき行為も少なからざる様なれば、この際召集予後備役者を内地に帰らしめ、また上海方面にある松井大将も現役者をもって代らしめ、また軍司令官、師団長などの招集者も逐次現役者をもって交代せしむるの要あり。この意見を大臣に進言いたしおきたる……。

 ――陸軍中央は、松井石根の不作為による不法残虐事件の発生を知って、内部措置のかたちで解任しながらも、その責任は不問に付し、国民にたいしてはその事実を隠蔽しつづけたのである。

 

南京事件は南京戦区において1937年12月4日頃から翌年3月頃までの不法行為をいう。発生直後の調査が行われず、資料が少ないため、正確な犠牲者の数は特定不能である。

便衣兵は武器を形態していなければならず、処刑にも軍事裁判の手続きが必要だが、日本軍はこうした法規は守らなかった。

南京事件連合国側で広く知られた事実となっていた。

 

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 南京事件に関する裁判(東京裁判、南京軍事法廷)は、様々な面から不公平であり偏っている。しかし、そのことによって事件そのものがなかったと強弁することはできない。

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 所見

 本書で使われる史料には日本軍の行政文書が多数含まれている。証拠を検討すると、南京における戦争犯罪を丸々否定することは荒唐無稽の印象を受ける。 

南京事件 (岩波新書)

南京事件 (岩波新書)