目的……昭和天皇について実証的な研究を行い、実像の把握につとめる。
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1 思想形成
裕仁は大正天皇の子供として生まれた。学習院で初等教育を終えてからは、東宮御学問所で様々な教科を学んだ。このときにダーウィンの進化論や実証史学に触れており、天皇神格化を否定していた。また、日本建国神話についても、神話であることを認識していた。
国際関係及び外交については、国際連盟や協調外交を重視する教育を受け、後の方針に影響を与えた。
第1次大戦終結後、欧州訪問を行った。このとき、イギリス王と対談したことで、英国のような大衆的な立憲君主制を導入すべきであるという考えを持つようになった。
裕仁は「君臨すれども統治せず」を理想とし、政党政治が必要であるとの考えに至った。
大正天皇が病気で公務から離れると摂政となった。かれは世間では一種のアイドルとなった。私生活では生物学に興味を持ち研究を行った。
憲法については美濃部達吉の師から教育を受け、また吉野作造の民主主義論にも影響を受けた。
――したがって、昭和天皇の政治思想とは、政党内閣を前提とした大衆的な立憲君主制を実現するため、道徳的な君主として国民を感化させていくことだったことがわかる。こうした考え方は、興味深いことに、大正デモクラシーの代表的な論者である吉野作造の主張と軌を一にしていた。
即位前から牧野伸顕が宮内大臣(宮内庁の管理)、後は内大臣(天皇の補佐、公印の管理が名目だが、実際は天皇の側近)として裕仁を補佐した。また、元老としては西園寺が適時助言を行った。
他に役職としては侍従長や侍従武官長がある。御学問所では東郷平八郎や阿部信行らが役職に就き教育を行った。
2 天皇となる
田中義一内閣に対しては、張作霖爆殺事件の真相を公表せず、河本大作らも行政処分で済まそうとする政府と陸軍の対応に不満を持った。昭和天皇は田中義一を叱責し、内閣は総辞職となった。これは、田中義一内閣を放置することがテロやクーデタにつながること、また天皇に政治責任が及ぶことを危惧した結果、天皇、宮中側近で決定したことだった。
続く浜口雄幸内閣ではロンドン海軍軍縮条約をめぐって内閣と陸海軍、世論が対立した。この時、天皇は国際協調、平和主義の観点から内閣を支持したが、艦隊派や新聞社は君側の奸が天皇を利用し工作しているとして天皇の方針を間接的に非難した。
3 理想の挫折
第2次若槻礼次郎内閣のとき満洲事変が勃発した。政府は不拡大方針を唱えるが関東軍はこれを無視し米国の権益である錦州を攻撃、満洲全土を占領した。
若槻内閣が総辞職し、西園寺は犬養を指名するが、かれも関東軍と軍部の暴走を止めることができなかった。
天皇は関東軍の行動を許さなかったが、軍、世論は満洲国建国に肯定的であり、天皇の協調外交方針は支持を失っていった。天皇の権威と統制力は弱まり、秩父宮や官僚らの間にも拡大派が増えていった。
五・一五事件の後、天皇は政党政治をあきらめ、西園寺を通じて斎藤実に組閣を命じた。
その後も、昭和天皇は協調外交を唱えるが軍の台頭を抑えることはできなかった。
1935年……天皇機関説事件
1936年……二・二六事件
――朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き凶暴の将校等、其精神に於いても何の恕すべきものありや……
――朕自ら近衛師団を率いて現地に臨まん……
天皇は陸軍を非難する勅語を発したが、高級幹部までしか伝達されなかった。
――結局のところ、陸軍は天皇から叱責されたという不名誉な事実を組織ぐるみで隠ぺいしてしまったのである。
内大臣は牧野伸顕から斎藤実に代わるがクーデタで殺害されたため、湯浅倉平が内大臣となる。
広田内閣の間も、関東軍は拡大工作活動を続けた。
――……当時の陸軍は、先に見たように、天皇を自己正当化の手段としか見ない独善的な集団と化しており、しかもそれは明治期の制度形成の過程に端を発する根深いものだった……。
4 苦悩の聖断
1937年7月9日、盧溝橋事件が発生する。天皇は御前会議を開き対中融和を図ろうとするが陸軍は受け入れないだろうとして実現しなかった。
近衛は短期決着できるだろうとたかをくくり追加派兵を決定した。
――そこには、明治維新の成功でうぬぼれた日本が陥った中国蔑視を背景として、第1次大戦の参戦や対華21か条の要求あたりから現れはじめた、機会便乗主義とでもいうべき軽薄な日本の外交体質があった。
協調外交を重んじる人物はほとんどいなくなり、天皇は孤立した。
太平洋戦争開戦に際しても、軍部の独走を抑えることができなかった。昭和天皇の理想は立憲君主制であり、自らが専制君主として戦争回避のために権力を行使することを自制した。その結果、「皇室の護持こそ最重要」という国体論を掲げる陸軍と、排外主義に傾く国民に裏切られた。
5 戦後
統治政策の観点から天皇の戦争責任は免じられた。天皇は自分に戦争責任があることを自覚していたが、公には口にしなかった。
日本国憲法において天皇は象徴であり、政治行為を行わないこととされていた。しかし、天皇は非公式に内閣に意見していた。
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本書の結論としては、天皇は協調外交を重んじ、また立憲君主制を理想とする人物だった。しかし、自ら親政を行うことをためらったために、戦争に向かう軍と世論の動きを抑止することができなかった。
◆メモ
本書における「天皇神格化を否定」する天皇と、『昭和天皇独白録』において、天皇制をつぶされるなら原爆が落ちようが本土決戦だろうが抗戦すると発言する天皇との差は、どこにあるのだろうか。
個人としてはリベラルだとしても、天皇としての職責を自覚・まっとうし、宗教的な発言をしたということだろうか。
「対米戦は間違いだとわかっていたが(立憲君主の建前上)口出しするのは権限を超えている」という理由づけには一理ある。しかし、そうであれば立場に基づいた責任を負うはずである。正確に立憲君主だったのかどうかも調べる必要がある。
本書の全体的な調子は、本心はこうだったが、立場上逆らえず、配下の者に恵まれず、また判断ミスもあり失敗してしまった、というものである。
不本意ながらやるしかなかった、泥沼にはまってしまった、自分は最初から反対だった、と弁明する指導者・指揮官がいつどこにでもいる。