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うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『日本の象徴詩人』窪田般弥

 ヨーロッパの象徴主義運動を解説した後、日本における受容や、日本の象徴詩について考える本。前提となる知識が足りないので、読みにくかった。

 

 エドマンド・ウィルソンによれば、「フランスの象徴主義の運動は、ロマン主義者が手をつけずにいた韻律の諸法則を破壊し、ロマン主義者たちが、なお非常に尊重していた伝統的な古典主義の、明晰と論理を完全に放擲することに成功した」。

 

 一九〇五年、上田敏による翻訳詩集『海潮音』が出版された。

 明治の洋風ディレッタントだった上田敏について。

 彼の訳詩集の問題点は、象徴詩が音楽と密接に結びついているにもかかわらず、古語や雅語を用いざるをえなかったことである。音楽にかんしては成果は得られなかったが「造形」、かたちにかんしてはかなりの成功をおさめた、と窪田は書く。

 

 象徴詩と音楽……オスモン婦人曰く「映像および音楽によって暗示を求める創作」、エドマンド・ウィルソンはポーの言葉を引き、「精神的効果のある真の不定性……それこそが音楽の要素である」とする。またワーグナーの綜合音楽にいち早く目をつけたのはボードレールである。

 「音楽は音楽なりに、音楽固有の方法によって訳出するのだ。また一方、音楽にも、絵画や、芸術の中で最も実証的なものである言語におけると同じように、常に聴衆の想像によって完全に補足される空隙がある」。

 ここでもまた宇宙についての認識の問題がたちあらわれる。

 ボードレールの言葉「可見の全宇宙は、想像力によってある位置とある相対的価値とを与えられる心像と符号との倉庫にほかならぬ」。

 「万物照応」(コレスポンダンス)という詩の引用が続く。


 マラルメはさらに「ヘエゲル哲学の絶対精神をいまひとつの軸として「暗示」による「不在の空間」をつくりだそうとしたのだった」。

 一方、ヴェルレーヌランボーは感情と感覚の世界を目指したのだった。ところでマラルメの「暗示」とはなにか。

 ――私はいう「花」! と。するとそのとき、私の声は、いかなる輪郭の後も残さない忘却の外に消えてしまう。だが、同時に、われわれが知っている愕(ガク)とは別な、現実のいかなる花束にもない、心持よい花の観念そのものが音楽的に立ちのぼってくる。

 象徴主義は言語という不純なものを楽音という純粋なものの状態に置こうとした。ことばを現実的で直接的なものであるようになそうと彼らは努力したのだった。

「「音楽化」された象徴主義の詩的宇宙にあっては、「夢」も「神秘」も、「あらゆる現実的な事象が再現されうる」。とにかく現実的であり「世界の所有」(デュアメル)であるそうだ。

 ヴェルレーヌなどの、メロディとハーモニーと流動感にあらわれるような、気分的な「音楽」とはまったく別のものである。そして上田敏が輸入したのはヴェルレーヌの音楽であった。こちらがいわゆる「高踏派」である。

 

 蒲原有明は「官能と情調の詩人であった」。仏教的観念の使用、「潔癖は一つの迷念」。

 ボードレールのような「われとわが身を罰する者」が抱いたようなものでない、伝統的な仏教観に培われた罪悪感。

 ハイデガー曰く「詩は言葉による存在の建設である」が、有明マラルメヘルダーリンと同様こういった考えを頭に浮かべていたのだろう。

 マラルメはドガに、詩はイデーではなく言葉によってつくられるのだ、と言った。ヴァレリー曰く詩人は実用的な日常語を非日常的な用途に用いることを宿命とする。

日本の象徴詩人 (1979年)

日本の象徴詩人 (1979年)