シュルレアリスム、メルヘン、ユートピアについての講演。それぞれの様式が、どのような意図で作られているのかを考える。
1
シュルレアリスムの定義について、誤った解釈が広まっている。シュルレアリスムは写実性、客観性を重視する。
シュルレアル=超現実に重きを置く。この超は「過剰な」、「強度の」といった意味である。
よく現実世界に対して幻想世界やワンダーランドが対比されるが、シュルレアリスムにおいてはこのような別世界は存在しない。秘密の門やウサギの穴を通って別世界に行くのではなく、別世界は現実世界と連続している。
――というのは、「超現実」とは、われわれが現実だと仮に思っていたもののなかから露呈してくるものなんで、夢もまたそういう性格をもっているのかもしれない。
超現実においてワンダーランドは日常生活と地続きである。
シュルレアリスムは元々都市で生まれた運動である。
自動記述の実験によって、ブルトンは、普通の記述であっても自動的な要素を含んでいること、意識と自動記述は連続していることを発見した。
シュルレアリスムにおいて超現実と現実は連続している、または現実の中に超現実が内在している。
――だから「自動記述」を抜きにしてシュルレアリスムを語った場合、たいていはうまくいかない。ただの「シュール」になってしまう。あるいはオタクに堕しかねない「幻想」になってしまう。
美術においてはエルンストを中心に自動デッサン、コラージュ、フロッタージュ等の手法を用いた。自動デッサンはミロやジャクソン・ポロックの絵画へと変化した。また、デュシャンらは既製品の利用によってデペイズマンの方法を考案した。
デペイズマンとは、「本来の環境から別のところへ移すこと、置きかえること、本来あるべき場所にないものを出会わせて違和を生じさせること」を意味する。
シュルレアリストたちは現実にこだわり続け各種の政治運動にも参加した。
まとめ……シュルレアリスムの原点は自動筆記であり、現実と超現実との連続性である。シュルレアリスムは書く行為そのものに執着する。
2
メルヘンは童話とは全く別のものである。童話はもともと新しいもので、「子供」という概念ができたのが、学校制度が確立した近代以降である。
――逆にいまの社会、とくに日本の場合には大学への進学率が異様に高かったりするわけですが、学校へ通う年数が増えるほど人間は幼稚になるともいえる(笑)。学校に行っているあいだは子供として保護され統制されてしまうから、大人になるのが遅くなるわけです。
おとぎばなしの起源は古く、作者のいない昔話、不思議な話がどこでも語り伝えられている。作者や「私」がおらず、人間の心理の細部は表示されない。されたとしても「かつてないほど悲しみました」や「たいそうな悦びようでした」というように、紋切り型である。
おとぎばなしでは事象は突発的、偶発的に発生する。人物は固有の名前を持たず、固有の地理や時代に拘束されない。
おとぎばなしには自我がなく、近代小説のように作者の体験や心情が反映されない。
――だいたい読むにあたいするもののなかには、いわゆる自我にこだわっていないものが多い。「私」がすったもんだして、さんざん悩んだり倦怠したり自己愛にふけったりしている作品など、もちろん書き方にもよりますけれど、ぼくはもうあんまり読む気がしませんね。
ファンタスティックとは、日常的な世界の中に異物が表れ驚く世界である。フェーリックとは、おとぎばなしのような、もとから現実とは全然違うレベルの別世界である。
3
ユートピアの特徴は外界から孤立した都市国家、砦であり、規則性、反復性、没個性を有する。そこで生活する人びとは個性のない明るい、機能別に分化した人たちであり、暗い部分は存在しない。清潔で、衛生的である。また、ユートピアには、日課はあるが歴史がない。
20世紀になると、高度に管理されたユートピアは地獄と同じ扱いを受けるようになった。オーウェル、ハクスレー、ザミャーチン、ユンガーらのユートピア小説はすべて地獄を扱ったものである。
著者は、日本人はこのような人工的なユートピアを目指そうとしているとして批判する。
ユートピアに対立するものが、迷路であり、混沌としたアジア風の世界である。プラトンが『国家』を書いたとき、古代ギリシアは混とんとしたアジアの文明に呑みこまれつつあった。
日本に復活させるべきもの……夜、無秩序、迷路、闇、非合理性、シュルレアリスム。
巨大なユートピア作家として、サドとフーリエが挙げられている。
完全な別世界であるフェーリック=メルヘンも、管理された秩序の世界であるユートピアも、シュルレアリスムとは別の潮流である。
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古典的な本であり、シュルレアリスムの勉強に役立つ。
・男性的(管理と秩序、曲線)と女性的(混沌と自然、曲線)
・ギリシア的(理性、合理性)とアジア的(非合理と本能、混沌)
・森と都市