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the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『英米法総論』田中英夫 その2

 2 イギリス法の歴史

 1066年ノルマンコンクエストによりノルマンディー公ウィリアム1世が国王となった。1085年の測地はドゥームズデイ・ブックにまとめられた。

 1215年、国王ジョンに対し貴族と教会、ロンドン市民が文書をつくり承認させた。これがマグナ・カルタである。

 ――……マグナ・カルタは元来は、近代的な意味での「自由」や「基本的人権」を保障するものではなかった。そこでの「自由」は、基本的には、baron達が国王の支配から自由であること、および領主として自己の領地内にある人民を支配し搾取する自由であった。

 その後改正を経た1225年のものが現行法である。

 コモン・ローは王国に共通の法という意味であり、国王による裁判はこの慣例に基づいて行われた。

 陪審は国民を保護するための制度となり、またもっとも合理的な審理方法となった。他には神判、宣誓、決闘等がある。

 訴訟方式form of actionの細かい発展過程。主に不動産や財産についての形式の説明。

 

 エクイティについて……人びとは通常の裁判所で正義が得られない場合国王に請願した。コモン・ローでは救済できないが正義に反している場合、大法官が救済を与えた。この救済が法体系となったものがエクイティ(衡平法)である。

 エクイティはその都度付け加える形で請願者に命令できたが、それに従わない場合は対象者を裁判所侮辱contempt of courtとして拘禁できた。

 ――こうしてコモン・ローという法体系を、エクイティという別の法体系が修正して、時代に合ったものとしていくというイギリス法独特のやり方が成立するのである。

 エクイティの扱う分野は弱者保護、多数当事者問題の処理、譲渡抵当、債権譲渡、信託である。

 

 教会裁判所は教会に関する事項について関与する権利を持った。教会裁判所に不服がある場合教皇に上訴することができた。

 各商業都市や港は商慣習法、海事法を定めた。海事法は国有化されるが、商慣習法は中世以降も継続した。

 1529年ヘンリ8世はイギリス教会をローマから独立させた。チューダー朝においては国王評議会が力を持ち、国会は権限を与えられたものの、それはあまり力を持たないものだった。

 スチュアート朝チャールズ1世の王権強化にともないコモン・ローは危機にさらされるが、革命により新しい時代が訪れた。

 清教徒革命からクロムウェルの共和政へ、共和政の失敗と王政復古王政復古から名誉革命へ。

 名誉革命により権利の章典bill of rightsが制定された。

 ――(名誉革命)によって、国会主権の原理が確立され、かつ混合成体mixid governmentとよばれる統治体制が樹立された。

 混合成体とは、国王、貴族院庶民院が互いに対等となり国政の権力者となるという考え方である。

 イギリスは、過去の民主政がいずれも暴走と圧政に終わる点に注目し、君主制、貴族政、民主政の要素を混合させようとした。

 その後時代ごとに改革や整備が行われ現在のような政治体制、法律制度となった。

 ベンタムによる改革、選挙法改正、責任内閣制と庶民院の優位等。弁護士についてはバリスタとソリシタの2種が存在する。

  ***

 

 3 アメリカ法の歴史

 植民地時代の統治と法制度は各州ごとに異なるが、現在のようなはっきりした三権分立は取られていない。総督とその諮問機関である参議会があり、他に議会(下院)があった。

 本国は交易委員会および国王政府によって植民地の法や議会を統制した。本国が重商主義を厳格に実行するに伴い、本国と植民地との利益衝突が生まれた。

 植民地の法においては自然法思想が重視され、これが後の憲法にも影響する。自然法思想とは、実定法の基礎をより高次である神の法に求める考え方である。

 1775年レキシントン・コンコードで衝突が起こり、その後ジョージ・ワシントンを指揮官として植民地連合軍が組織された。1782年アメリカは本国から独立した。

 独立後は、イギリスによる経済的封じ込め、戦争終結に伴う不況、連合の無機能により様々な問題が発生した。

 シェイズの反乱はシェイズ大佐率いる復員兵が給与支払いを求めて連邦議会を襲撃し鎮圧された事件をいう。

 

 合衆国憲法の特徴……連邦は憲法で与えられた権限のみを行使しうる。三権分立の強調。

 ジャクソニアン・デモクラシーとは……1829年、高卒の軍人出身であるアンドリュー・ジャクソンが大統領についた。社会のエリートではなく普通の人間が選ばれ、「人民による統治」が行われる時代の到来とされた。後継のヴァン・ビューレン以降も、庶民出身の大統領であることが盛んに宣伝された。

 州憲法においては憲法の具体性増大、長大化、直接選ばれる地位の増加、猟官制、普通選挙等への改正が見られた。

 連邦憲法は改正条件が厳しくまた南北対立のためかなわなかったが、運用面での州への分権化、また自由競争の奨励がおこなわれた。

 1860年リンカンが大統領選に勝ち、南部諸州は次々と連邦を脱退する。アラバマ州モンゴメリにてジェファソン・デイヴィスを大統領とするアメリカ連合国が発足した。

 南北戦争後、合衆国憲法が改正され奴隷制は完全廃止された。人種差別をめぐる細かい法律の運用や解釈について説明される。

 19世紀後半からは鉄道開発や工業発展が進んだ。

 共和党は北部資本家の支持を受け、民主党は南部農場主の支持を受け、どちらも差のないものとなった。また、貧富の差が拡大し、労働運動の歴史が始まった。

 自由放任政策を掲げる保守的な大統領が続き、また大統領の任命する最高裁判所は企業・有産階級の保護に傾斜した。

 1929年、自由放任政策の破綻により大恐慌となった。ローズヴェルトニューディール政策はこれまでの主義と異なるものであり、連邦政府の権限をめぐって政府と裁判所が激しく争った。ルーズヴェルトは裁判官をすげ替えた。

 1940年徴兵制が敷かれ、また外国人登録法が制定された。戦中戦後にかけては、共産主義への警戒、人種差別の撤廃などの傾向がみられる。

 1960年代以降のアメリカは、大恐慌以来の自信喪失に陥ったのではないか、と著者は考える。

 ベトナム戦争の失敗に伴い、統一から多様化への傾向、結果の平等を重視する傾向、情報公開推進の傾向が生まれた。また裁判所はウォーレン・コートの時代といわれ、「平等、言論の自由、刑事被告人・被疑者の権利の保障」が重視された。

 

[つづく]

 

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