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うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The Scramble for Africa』Thomas Pakenham

 『The Boer war』の著者。

 本書では探検家デイヴィッド・リヴィングストンの死の直後である1876年から1912年までをアフリカ争奪戦の時代とする。

 アフリカ探検(侵攻)と植民地化の歴史は錯綜としているが、この本はほぼ全体をカバーしている。

 

 欧州によるアフリカの分割は3C(Commerce商業、Christianityキリスト教Civilization文明)の名目において行われた。

 その主な担い手は英、仏、独、イタリア、ポルトガル、それにベルギーのレオポルド2世だった。

 3Cにはやがてもう1つのC(Conquest)が加わり、武力による制圧が盛んになった。

 アフリカ争奪戦は、欧州の拡大政策とともに、アフリカ内部での抗争や奴隷貿易の隆盛等も原因として挙げられている。本書はこの時代の全貌を明らかにするものである。

 

 1 開かれた道

 探検家リビングストンの死後、植民地獲得の野心を持つベルギーのレオポルド2世は、国際アフリカ協会(IAA)を設立する。

 米国人の探検家スタンレーは人喰い部族や敵対部族の襲撃に対処しつつ、中央アフリカを横断し、コンゴ河流域の地理情報を確定させた。スタンレーの探検隊は過酷な襲撃や熱病、激流等により半分以上が死亡した。

 彼の協力者はザンジバルムスリム君主であり、部族を襲い奴隷として売買していた。

 1877年時点で、南アフリカは英領ケープ国、ナタル国と、アフリカーナ―(オランダ系白人)の支配するトランスバール国、オレンジ自由国に分かれていた。英国が南アフリカ植民地拡大方針に基づきトランスバール国を併合すると、副大統領クルーガーが英国に反抗した。

 トランスバールを脅かすズールー族は英軍によって撃退された(ズールー戦争)。しかし1880年、クルーガーらの独立宣言により始まった第1次ボーア戦争は、英軍の2度の大敗に終わった。トランスバール国は再びボーア人のものとなり、グラッドストン内閣は打撃を受けた。

 1881年、フランスはチュニジアの君主(ベイ)を恫喝し保護国とした。フランスはイギリスの南アフリカでの動きを新たな拡大政策と考え、対抗策をとった。

 こうして新しいアフリカ争奪戦が始まった。

 イギリスはエジプトのクーデタを制圧し、間接統治を強化した。

 英仏関係は悪化し、コンゴではベルギーが拡大方針を進め、ドイツも同様に進出を始めた。

 

 2 レースが始まる

 ベルギーのレオポルド2世が設立したIAAと探検家スタンレーはベルギーの出先機関とその中心人物となり、フランスの探検家ブラーサもフランスの先鋒として活動を始めた。

 コンゴと同様、ラゴスからカメルーンにかけての西海岸、また特にニジェールにおいても、イギリスとフランスの覇権争いが始まった。

 さらに、ビスマルクの率いるドイツも西アフリカ競争に加わった。1884、宰相は探検家ナハティガルに命じてトーゴカメルーンをドイツ領とした。グラッドストンはこのときはドイツの動きをほとんど警戒しなかった。

 スーダンでは、コーランに基づく聖戦を唱えるムハンマド・アフマド率いるマフディ―運動が、首都ハルツームを包囲し、英国のゴードン将軍の部隊が籠城していた。

 この運動は、エジプトが奴隷制を廃止したことによる反発だった。かれらはエジプトと、その宗主であるオスマン及び西洋諸国を排除しようとした。

 ウォルズリー将軍らを派遣するが救援はうまくいかず、グラッドストンが躊躇している間にゴードン将軍は首を刎ねられた。グラッドストンは退陣し、代わって帝国主義に消極的なソールズベリー卿が首相となった。

 

 3 征服の権利

 ビスマルクのドイツはイギリスを孤立させようとフランスと結託する。ザンジバルと東アフリカをめぐって、植民地争奪戦が始まった。

 東アフリカのウガンダでは、王が土着人のみならず白人の宣教師たちをも生贄として生きたまま火あぶりにしたり切り刻んだりしていた。第2次ソールズベリー内閣は、宣教師らの救出のために保護領を拡大すべきではないかと検討する。

 ドイツのカール・ペータースはドイツ領東アフリカを獲得した。

 一方、スタンレーの探検は失敗に終わり、レオポルド2世とイギリスの企みは失敗した。

 引き続き、東アフリカをめぐる英独の抗争が続く。

 フランスは野心家の若い軍人アルシナール(Archinard)がニジェールを侵略し、現地の王たちを次々と制圧した。アルシナールによる領土拡大は英国の領土にも接近し、植民地経営のコストは膨れ上がり、本国からは非難された。

 南アフリカではセシル・ローズが1890年から新しい開拓部隊を組織し未開の地に向けて出発した。

 コンゴ自由国の国境付近では、中央アフリカの中でも恵まれた土地を巡って、イギリス、ベルギーからの派遣隊らが先を争って現地の王を陥落させようとしていた。ベルギーのレオポルド2世はイギリス人探検家や軍人を雇い、部隊を派遣した。

 ウガンダにおいて英独が征服を行った。やがて、英仏はスーダンをめぐって対立した。スーダンはこのときマフディー運動に占領されていたが、どちらがこの地を制圧するかをめぐって情勢は悪化した。

 エリトリアを征服したイタリア王国は、さらにエチオピアに進出しようとした。クリスピ首相ら政府はバラティエリ将軍を派遣したが、アドワの戦いにおいて、メネリク2世率いるエチオピア軍に大敗した。結果、イタリアはエチオピアの独立を認なければならなくなった。

 フランス、イタリア、ドイツとは異なり、イギリスは植民地に対して消極的だった。

 イギリスのアフリカ植民地は、主に個人によって獲得されてきた。マッキノンは東アフリカを、ルガードはウガンダを、ゴールディーはニジェールを、セシル・ローズ南アフリカ諸国を、またクローマー卿はエジプトを手に入れた。

 しかし、植民地相のジョゼフ・チェンバレンは、南アフリカでの勢力拡大を図った。

 1898年、イギリス軍のキッチナーはエジプトから南下し、マフディー運動を鎮圧し、ファショダへ向かっていた。フランスのマルションは西アフリカから河と密林を越えて進軍しファショダへ先に到着した。

 両軍はファショダで衝突寸前となった(ファショダ事件)。

 イギリスはファショダにおいてフランスを撤退させることができた。これは、フランスの世論がドレフュス事件により反軍部、反保守派に傾いていたこと、海軍力において到底イギリスに及ばなかったことによる。

 安堵するヒマもなく、南アフリカにおいてトランスヴァール共和国大統領クルーガーが、イギリスに対し最後通牒を発した。

 ボーア戦争において、英国は勝利したものの屈辱を味わった。近代戦能力の低さを露呈し、また、キッチナーの強制収容所作戦は国際的な非難を浴びた。

 4 抵抗と改革

 レオポルド2世のコンゴ経営が、恐るべき非人道的な様子であることが徐々に明らかになった。

 イギリスとフランスはファショダ事件をきっかけに接近したが、これはドイツの孤立を深め、結果的に第1次大戦につながったと考えられる。

 ドイツ領南西アフリカ(現在のナミビア)では反乱が勃発し、ドイツ帝国軍は原住民を徹底的に追い詰め、シュリーフェン隷下のトロッサはジェノサイドを試みた。本国政府の懸念からこの作戦は中止となった。

 続いてドイツ領東アフリカ(現在のタンザニア)でもマジ・マジ反乱が発生した。この通称は、魔法によってドイツ軍の銃弾を水に変えられると主張した予言者に由来する。

 ドイツ軍やカール・ペータースらの残虐行為が本国で問題となった。

 仏領コンゴにおいても、かつてコンゴを発見した探検家ブラーサが植民地行政の残虐行為を告発した。かれは植民地政策の非人道性に失望し死んだ。

 モレルらの運動により、英米の圧力が強まった。レオポルド2世は死に、1908年、コンゴ自由国はベルギーの統治領となった。

 

 終章

 アフリカは列強に分割されたが、第2次大戦後から独立運動が起こり、ジンバブエの独立を最後に、アフリカ諸国は宗主国から独立した。

 

  ***
 重要人物

・ダービー卿(第15代)

 エドワード・スタンレー。トーリー党所属だったが帝国主義政策を嫌いホイッグ党に移る。ダービー伯爵は伯爵位の1つである。グラッドストン内閣の下で植民地大臣を務め、帝国主義政策の抑止を行った。

・グランヴィル卿

 ホイッグ党員。第1次グラッドストン内閣で植民地大臣と外務大臣を、第2次グラッドストン内閣で外務大臣を務めるが、ゴードン将軍の救援に失敗しグラッドストン内閣が倒れることとなる。

・ウォルズリー

・ソールズベリー卿(ロバート・ガスコイン・セシル)

 グラッドストンに続いて首相となった人物。大英帝国の植民地を拡大させる。

・ローズベリー卿

 帝国主義者、首相となるが、ルガードのウガンダ遠征を巡って内閣で対立が生まれ辞職する。

・フレッド・ルガード

 ウガンダ戦争で活躍したイギリスの軍人。のちに植民地総督を務める。

  ***

 

 ◆感想

 冒険家たちの超人的な体力、精神力が印象に残る。同時に、ドイツのカール・ペータース(Carl Peters)が象徴しているように、冒険と残虐は表裏一体である。この探検家はナチス時代には国家英雄として顕彰されていたというが、本書での扱いは殺人狂であり、存命中も「処刑人」、「血まみれの~」等と呼ばれていた。

 ベルギーのレオポルド2世と、かれの個人的な意向でつくられたコンゴ自由国も、狂気としか思えない。

 また、列強やアラビア人、アフリカ部族間の抗争の粗暴さも強烈である。このような野蛮な行為の積み重ねが歴史であると感じた。

The Scramble for Africa

The Scramble for Africa

 

  レオポルド2世の私領地コンゴ自由国に関して次の本が売れたという。自分も持っているがまだ読んでいない。

 年貢を規定通り納めないと刀で手足を切断されるような国とのことである。

King Leopold's Ghost

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