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うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Hitler and Stalin』Alan Bullock その2

 11 総統国家

 ヒトラー政治の特徴……法律および官僚制への軽蔑、部下たちの対立内紛を温存し、自らの権力に依存させる方針、既存の統治基盤や経済構造の利用。

 4か年計画……4年以内に軍と経済を戦争遂行可能状態にするというもの。ヒトラーの大原則はドイツの再軍備である。

 ゲーリングヒトラーの信頼を得て第2次四か年計画(1936~)を実施し、自給自足と軍需産業振興を行った。市場原理主義者のシャハトは影響力を失った。

 ナチの価値観がどの程度国民の中に根付いたのかについては議論が分かれる。

 警察機関はヒムラー率いるSSに吸収され、やがてSSは収容所業務を担い全欧州から憎まれる存在となる。

 12 革命がサトゥルヌスのように子供たちを食べる

 30年代後半のソ連における大粛清は、最盛期には、NKVD長官エジョフにちなんで「エジョフシチナ」と呼ばれたが、これは精確には「スターリシチナ」の間違いである。

 粛清はスターリンの意志によるものであり、エジョフはスケープゴートにされたに過ぎない。スターリンの側近はモロトフ、カガノヴィチ、フルシチョフ、ヴォロシーロフ、ジダーノフらイエスマンだけとなり、またヤゴダ、エジョフらは粛清に関して多くを知りすぎたため自身らも後に粛清された。

 大粛清の目的はレーニンの党をスターリンの党に置き換えることにあった。キーロフ暗殺以降、憲法が改正され、死刑の年齢引き下げ、連座制の導入がおこなわれた。多数の党員や反対意見の持ち主が、陰謀のでっち上げにより「人民の敵」とされ処刑された。

 逮捕と起訴は首謀者の自白に基づいたが、この自白は拷問により引き出したものである。

 粛清は秘密裏に行われ、スターリンも直接言及しなかったため、組織的な抵抗は生まれなかった。やりすぎにより政府や軍の機能がマヒし始めると、エジョフは罪をかぶせられ処刑された。

 NKVDは本人の自白を重視した。すぐに処刑せず、自白を必ずさせることにより合法性が付与された。

 定期的に組織の上層部を粛清し人員を入れ替えを行った。スターリンはレーニンの継承者を名乗りながら、党を変質させた。旧時代の人間はいなくなり、スターリン時代しか知らない新しい世代が育っていった。

 13 1918の否定

 ヒトラー再軍備を進め、ヴェルサイユ体制を崩そうと試みた。

 スペイン内戦への介入……最大の支援国はイタリアだった。ドイツはコンドル軍団を派遣し空爆を行った。ソ連コミンテルンを通じて内戦に介入するが、スターリンの指示によりスペイン国内のアナキストを討伐、内部抗争を引き起こした。その後、内戦を支援したソ連人は粛清され、国際旅団も粛清の被害を受けた。

 ヒトラースターリンともに、スペイン内戦の継続を望んでいた。ヒトラーはドイツ再軍備のために、地中海に緊張を絶えず持続させておきたかった。スターリンは欧州列強を、共和派とファシスト政権とで分裂させようと企図した。ドイツの支援が少量だったのは戦争継続を目的としていたためである。

 軍事と経済について……ヒトラーと党、軍は経済の合理化に抵抗した。大量生産は行われず、熟練工労働が好まれた。集中生産も地方の富豪に反対され、また女性の労働活用も終戦まで行われなかった。

 赤軍粛清によりソ連の軍事力は大幅に低下した。

 ヒトラーは、財界ではシャハト、外交部署ではフォン・ノイラート、軍ではブロンベルクとフリッチュを失脚させ、信頼できる党員を後任に据えた。こうして国家運営のナチ化が完了した。

 14 ナチ・ソヴィエト協定

 ドイツはオーストリアを半ば脅迫により併合し、その後チェコにも進出をたくらんだ。オーストリアの凋落を救うにはドイツとの合体しかないとかれは主張した。シュシュニク首相はヒトラーの要求を呑んだ。後任にはオーストリアナチ党の中心人物ザイス・インクヴァルトが据えられた。

 チェコについては、ズデーテン地方のドイツ人保護と、スロヴァク人の民族主義運動を利用した。

 ゲーリングの情報機関は各国政府の通信を盗聴しており、チェコに進出したとしても英仏は戦争に踏み切らないことを確信していた。

 英仏は融和政策によりドイツのズデーテン取得を許した。ソ連は不干渉を保持し、イタリアはドイツに味方した。

 ハイドリヒを主導としたユダヤ人移住(追放)政策が進められ、ユダヤ人を経済から排除した。

 ヒトラーの軍備拡張への要求に対して、経済生産が追い付かなかった。ドイツはハンガリールーマニア等東欧との経済提携を深めていくが、終戦まで資源不足は克服できなかった。

 チェコスロヴァキアの占領に続いて、ポーランドにも土地を要求しようとする。ドイツは英仏とソ連を切り離し、独ソ不可侵条約を結ぶことに成功する。しかし、ポーランドは恫喝に屈しなかった。

 1939年9月1日にドイツ軍がポーランド国境から侵攻を開始すると、イギリスが最後通牒を出した。このときヒトラーは茫然自失となり、またゲーリングは神頼み的な発言をした。軍に二正面作戦の能力がないことを知っていたからである。

 ムッソリーニは全体戦争への介入を恐れ、ポーランドに関しては中立を保った。イタリアもまた総力戦の準備ができていなかった。

 

 15 ヒトラーの戦争

 1939年9月のポーランド侵攻は成功し、ポーランドはドイツとソ連によって分割された。両国によるポーランド秩序の破壊が行われた。

 「平凡な悪人」ヒムラーと、ハイドリヒの指揮する秘密警察によってユダヤ人や支配階級の掃討がおこなわれた。アインザッツグリュッペン(the task force)がポーランドに送り込まれ、後方において射殺や強制移住を行った。

 この年に、身体および精神障害者安楽死させる政策が始まっている。

 ソ連はNKVDをポーランドに送り込んだ。また、ウクライナ等からも自警団がやってきて、ユダヤ人、富農、貴族、知識人、教師、聖職者等を拷問、殺害した。

 NKVDの主要任務は逮捕、投獄、尋問、拷問、射殺だった。カチンの森においてはポーランド軍将校15000人が処刑された。ソ連が関与を認めたのは、ソ連崩壊直前のことだった。

 同年、ソ連フィンランドに領土の割譲を要求し、拒否されたため侵攻を開始する(冬戦争)。マンネルハイム率いるフィンランド軍は装備と冬季戦の技術においてソ連軍を圧倒した。英仏がフィンランド援助を表明したため、ソ連は物量によって前線を押し出し、和平にこぎつけた。

 冬戦争での醜態を観察して、ヒトラーソ連軍を恐れるに足らずと判断した。

 1940年……ノルウェーデンマークに侵攻し占領、駐留していたイギリス軍を撤退させる。フランスへの侵攻が成功しパリを占領する。

 イギリス本土上陸のため「あしか作戦」を練るが成功の見込みがないとわかり、以後ドイツは本土進攻を凍結する。バトル・オブ・ブリテンでは既にイギリスに負けており、海軍力にも差があったためである。

 ドイツはスペイン、ソ連との共同によるイギリス封じ込めを画策するが、フランコは頑なに拒否し中立を維持した。モロトフは、東欧の権益がドイツによって脅かされている点を指摘し同盟に応じなかった。ただしスターリン三国同盟ソ連を加えた四国同盟受け入れを期待していたという。

 ヒトラーは1941年春のソ連侵攻を計画した(バルバロッサ作戦)。

 イタリアはバルカン半島を影響圏とするためギリシアに侵攻するが敗退を続ける。ドイツはイタリアのギリシア侵攻を援助した。

 16 ヒトラーの新秩序

 独ソ戦の経緯について。

 ヒトラーの行動原理によれば、ドイツは生存圏の確保のために、東方に領土を拡張し、「亜人種」であるスラブ人を征服しなければならなかった。イギリスとの戦争が頭打ちとなったため、かれはソ連侵攻を決定した。

 ドイツはギリシア、ブルガリアを始め東欧を電撃戦により制圧しており、かれの自信は頂点に達していた。

 ソ連は様々な面から戦争準備ができていなかった。スターリンは合理主義的な思考に基づいて、「ヒトラーが協定を破りソ連に戦争をしかけることはないだろう」と断定していた。

 かれは、イデオロギーが合理的思考を退けて行動を支配することに思いが至らなかった。

 また、赤軍粛清によって、軍事的素養のない3馬鹿風の将軍がスターリンの寵愛を受けていた。かれらの間違った指導、方策が赤軍の程度を低下させた。

 ドイツの動員が様々な情報機関や工作員から報告されても、スターリンはドイツの侵攻を信じなかった。陸軍のジューコフティモシェンコ、海軍のクズネツォフ、外相モロトフらは必死にスターリンを説き伏せるが効果は無く、まったく準備のないままドイツによる空爆、陸上侵攻が始まった。

 冬になったところで冬季装備のないドイツ軍は停止し、ソ連は巻き返しを図った。ドイツ軍の間には失望と恐怖が広がった。

 この時期に、ドイツのための経済圏の確立が試みられた。また、ユダヤ人問題についてはハイドリヒの創設したアインザッツグリュッペンが占領地や後方で処刑活動を行っていたが、教会関係者等の批判や、処刑従事者の心的ストレス軽減のため、新しい解決策を考えなければならなかった。

 当初、マダガスカル(旧フランス領)にユダヤ人を移送するという計画もあったが、実現性などを考慮した結果、物理的に抹殺することに決定した。

 ヒトラーユダヤ人根絶の命令をヒムラーに下し、ヒムラーはハイドリヒに、ハイドリヒはアイヒマンに命じた。ポーランドを中心に絶滅収容所が建造された。

 アイヒマンやルドルフ・ヘースらは試行錯誤の結果、ユダヤ人の鉄道輸送と死の工場運営を開始した。

 

 17 スターリンの戦争

 スターリングラードにおいて独ソ両軍が戦闘した。ヒトラーは死ぬまで国防軍首脳部と協調できず、軍事的に愚かな指示を出し続けたが、スターリンは初戦の大失敗を反省したようだった。かれは軍のエリートたちの意見を尊重するようになった。あわせて、職業軍人による一元的指揮の復活、階級と肩章の復活等を行い、赤軍を従来の帝国軍の形式に戻した。

 1943年1月、ドイツ軍パウルス元帥以下ドイツ兵たちが降伏した。

 ユダヤ人虐殺の進行と、ヒトラー暗殺計画について。ゆるやかなネットワークを構成する反ナチ軍人たちが総統暗殺を試みるが失敗した。シュタウフェンベルクの爆弾テロはヒトラーらを直撃したが、ヒトラー本人は奇跡的に生還した。

 

 18 ヒトラーの敗北

 ドイツ軍は追い詰められ、米英ソはそれぞれ戦後処理について会談していた。スターリンソ連の指導者として、超大国と対等の立場を手に入れた。ヤルタ会談はかれのキャリアの中でも頂点に位置する。

 ヒトラーは地下壕にこもり、現実逃避してひたすら攻撃命令を下していた。1945年には東西両面の連合国軍がドイツ本土に進入した。

 ヒムラーゲーリングの両者はヒトラーに叛いて講和交渉を試みたため党から追放された。側近2名の裏切りによるヒトラーは意欲を失った。

 5月7日、自殺したヒトラーゲッベルスらに代わってヨードル元帥とフリードベルク提督は無条件降伏を受け入れた。ヒトラーは自らの後継者にデーニッツ提督を指名した。

 19 スターリンの新秩序

 戦後、ルーズベルトチャーチルに代わってトゥルーマンとアトリーが米英の国家元首となった。かれらは連合国の関係を維持しようという意志が前任者ほど強くなかった。ドイツやポーランドの帰属をめぐって、戦勝国間の関係は悪化した。

 スターリンは祖国を救った英雄となった。軍事的功績を独占するため、ジューコフ等の軍人たちは失脚させられた。

 ユーゴスラヴィアのティトーの不服従と、1948年のベルリン東西分裂について。

 70歳前後になったスターリンは気力を失い、これまで以上に猜疑心が強くなった。孤独とわびしさにむしばまれ、反ユダヤ主義的な傾向も顕著になった。レニングラード事件や医師団事件等、でっち上げによって多くの党員やユダヤ人が処刑された。

 かれは信念(conviction)よりも恐怖(fear)を重視した。信念は移り変わるが、恐怖はいつまでも人の心に残り続ける。恐怖に基づいた支配がかれの専制を成功させた。

 

 20 構図

 ヒトラースターリンの時代がヨーロッパに与えた影響、スターリン体制と共産主義の関係、ヒトラースターリンという個人に、どれだけの責任を負わせられるかという問題について。

 著者は、2人のいた悲劇的な時代は間違いだったと信じる。ヒトラーナチズムは否定され、スターリン体制の現実は暴露され、また東欧からも一掃された。ヨーロッパは連帯を始めている。

 ヒトラースターリンの時代は人間の悪の可能性が最大限まで発揮された時代だが、同時に人間の善もわずかながら発現した。

 無感覚(callousness)と哀れみ(compassion)は併存している。

  ***

 ドイツ軍侵攻の知らせを受けたときのスターリンの様子が強く印象に残った。本書によればスターリンは沈みこんだまま自分の別荘にひきこもり数日間まったく姿を現さなかったという。戻ってくると調子を取り戻して、今度は軍人たちのアドバイスは少しずつ聞き入れるようになった。

Hitler and Stalin: Parallel Lives

Hitler and Stalin: Parallel Lives