読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『慈悲』中村元

 古来、日本人の精神に大きな影響を及ぼしてきた「慈悲」の観念について考えることを目的とする。

  ***

 1

 慈悲は仏教の中心的な徳であり、仏そのものともいわれる。

 慈悲の重要性は現代において高まっている。それは、宗教の相対性が強く浮彫になったからである。

 ――今日人びとがいずれかの宗教を選ぶ場合には、教理や教義によるのではなくて、それを奉じている人びとの人格や性格に顧みる場合が多い。

 慈悲の観念は、仏教だけでなく、他の宗教によっても唱えられている。

 2

 慈悲は一般にあわれみ、いつくしみと解されるが、元々、慈は他人の苦しみを思い、悲は他人の苦しみを抜くことを意味していた。

 3

 慈悲の観念の起源は原始仏教までたどることができる。

「苦しんでいる生きものに対しては友情を感ずるように修ずる。苦しんでいるものどもに対しては同情を、徳をもっているものどもに対しては喜びを、悪の性質をもっているものどもに対しては無関心を感ずるように修する」。

 後代に入り、仏の慈悲と、凡夫の慈悲が区別されるようになった。仏の慈悲は実際に精神物質両面において苦悩を取り除くことができるとされ、凡夫たちは仏の慈悲に対して受動的になるべきだとの考えが唱えられる。

 小乗仏教においては、慈悲は、敵を減らすという実際的な利益があると説かれた。最終的に無執着に至る小乗仏教に対抗して、大乗仏教は、慈悲を教義の中心に据え、他人を救済することこそ重要であると考えた。

 中国の仏教である禅宗では慈悲はほとんど取り上げられなかったが、禅宗が日本に渡ると、日本では慈悲を強調するようになった。

 4

 仏教における慈悲の論理とは何かを考える。

 慈悲とは他人をいたわりいつくしむことである。自己を護ることが他人の自己を護ることでもある。中世インド宗教においては、自他の利益が至高の目的とされた。

 慈悲の実践とは、自己と他人とが対立する場合、他人に合一する運動ともいえる。

「したがって慈悲の論理は、また自他不二の論理であるということができる」。

 自他不二の論理はウパニシャッドまで辿ることができる。

 一切が空であり、実体を持たないならば、慈悲に何の意味があるのだろうか。このような疑問が歴史的に表明されてきた。

 大乗仏教の哲学者は、空観にもとづく無縁の慈悲を打ち出した。慈悲は世の中が空であればあるほど純粋なものとなる。

 ――「無縁」とは「対象が無い」という意味である。理想としてはありとあらゆるものを平等と観じ、空性を認めるがゆえに、絶対の慈悲は対象を持たない。

 空から慈悲心が生じる理由について、天台大師は「空が真理であるならば、衆生が苦しみ悩んでいるという事実もやはりそれと対等の真理」となるからである、と説く。

 実相が空であるにもかかわらず、人びとが苦しんでいることに対して慈悲が生まれる。

 空をふまえた慈悲の実践は、慈悲の意識なく行われる。これが仏である。

 5

 慈悲と、西洋における愛、儒教における仁との違い。

 慈悲は無差別に、他人に対して行われる。

 ――すなわち慈悲の立場にあっては、自分は人間的な美醜好悪の情念を超越せねばならぬのである。……ところが反対に他人がもっている感性的な感情欲望などは尊重されねばならない。だから人の感官を楽しませる芸も展開されねばならない。

 慈悲は親疎分け隔てなく、万人に対して平等に与えられるべきものである。宗派によっては身分階級、男女の区別なく慈悲を行使することを主張した。

 また、私有財産とも相容れず、慈悲は動物までいきわたる。ジャイナ教等、特に人間と動物を区別せず殺生を戒める宗教が仏教以外にも存在する。

 西洋における愛は、神を対象とするものと、人を対象とするものとで区別をつけていた。また、儒教の仁は、上から下に施されるものである。慈悲は仁と愛に比べても、もっとも広範に及ぶ、公平な観念であるといえる。

 6

 ――……アショーカ王はギリカという凶暴な悪人を死刑執行人に任命して、牢獄を造らせ、残酷な殺戮を行わせた。たまたま1人のビク(比丘)をとらえたが、かれを殺そうとすると、神通を現じたので、殺すことができなかった。……そこでアショーカは合掌懺悔して仏教に帰依することになったという。

 ――……悪魔ナムチが修行中の釈尊に対してあわれみの語を発して修行をやめさせようとしたという。しかしこれは真の慈悲ではない。身を苦しめても道を求め、人びとのために教えを説くのが、真の慈悲である、と考えたのである。

 慈悲の実践について、社会事業福祉事業は東洋において古くからおこなわれてきた、と著者は主張する。

 近代にいたり、教団による「社会活動の機能」は次第に失われてきている。神学者はこの現象を、教団の保守的傾向に由来すると考えている。

 ――仏教は所詮社会改革とは無縁なのであろうか。もし社会的な問題にまったく目をつぶるならば、仏教は早晩亡びてしまうであろう。それでよいのかもしれない。ただいわゆる社会改革運動がややもすれば凶暴な暴力の支配に委ねられる傾向がある以上、この凶暴化をせきとめるためにはどうしても宗教的な心情を必要とする。

 自分が救われていないのに他人を救うことができるかという疑問について、夢窓疎石は次のように答える。

 自他不二の観念から、自己と他人は不可分である。自己を救うは他人を救うことのなかにある。

 著者は仏教教団も積極的に活動すべきであると考える。

 ――……これに反して、難しい法語をつくって楽しんでいたような独善的な人びとは慈悲ということをほとんど説いていない。

 

 結語

 慈悲は自他不二の観念にもとづき自己を捨てて他者を助けることにある。自己を捨てるだけでは虚無主義となる。 

慈悲 (講談社学術文庫)

慈悲 (講談社学術文庫)