うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『韓国現代史』文京洙

 目的……特に下からの運動及び周縁の動きに注意しつつ韓国現代史を概説するもの。

 序章

 韓国は日本以上に同質の社会だが、地域主義もまた根強い。韓国には全羅、慶尚、忠清、京畿、江原といった各道があり、中でも全羅道(湖南)は差別を受ける傾向にある。政治的には朝鮮王朝以来、漢陽(ソウル)を中心とする中央集権が維持されてきた。

 済州島は半島南端から90kmに位置し、沖縄本島よりわずかに小さい。古来、流刑地として使われている。

 19世紀には、朝鮮の中で辺境とされる全羅道平安道咸鏡道済州島で大規模な反乱が起こった。

 

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 1945年、日本の降伏によって朝鮮の独立は不意におとずれた。米軍及びソ連軍が軍政を敷くまでの空白期間に、全土で人民委員会がつくられた。しかしこうした自発的な動きは軍政によって退けられた。

 ――分割占領にのぞむ米ソが、朝鮮半島の戦後構想として含意していた枠組みは「信託統治」という考え方であった。……カイロ宣言は、「朝鮮人民の奴隷状態に留意し、やがて(in due course)朝鮮を自由かつ独立の国たらしめる」と謳っていた。

 その後、信託統治スターリンの同意を得て、45年のモスクワ外相会談で確立した。

 朝鮮の左派は内部抗争によって分裂した。南朝鮮では、軍政及び右派が台頭し、北朝鮮では金日成及び朴憲永らの共産勢力が実権を握った。済州島においても米軍政・右派と、島民との対立が激しくなった。

 1947年8月に大韓民国が成立するが、済州島での抗争は継続し、韓国軍の指揮権は米軍が持っていた。47年の四・三事件により1000人あまりが死亡した。この討伐は49年まで続いた。

 50.6.25、北朝鮮が本格的な侵攻を開始した。朝鮮戦争は53年まで続く。

 李承晩は戦争を機会として体制を固めた。

 ――李承晩政府のワンマン支配を支えたのは、植民地期から引き継いだ警察官僚機構、北朝鮮出身者などを含む右翼組織、さらには戦争によって10万から60万の兵力に肥大化した軍隊であった。さらに、この警察、右翼、軍隊の3本柱に加え、帰属財産の払い下げや援助に寄生する権力型の新興財閥が、やがて李承晩政権を支えるもう1つの柱となる。

 

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 李承晩の権威主義体制に反対し、60年、高校生・学生を中心にデモが発生する。李承晩はハワイに亡命した(四月革命)。

 1961.5.16、青年将校らによるクーデターがおこり、63年、朴正煕が大統領となる。朴は輸出工業化に向けて保護政策を進め、成功した。

 1965年、日韓基本条約とともに日韓請求権及び経済協力協定が締結される。このとき、徴用、徴兵による補償は韓国政府に委ねられた。70年代には朴の独裁と抑圧が強まる一方、重化学工業が発展し、「漢江の奇蹟」と呼ばれる。

 1979.10、中央情報部長官金載圭は朴大統領を射殺した。

 民主化に向かうとおもわれたが、選挙の結果、軍部の全斗煥が勝利し、以後6年間、さらに抑圧的、統制的な体制が敷かれた。87年、民主化運動により憲法改正、その後大統領選を実施するも、金大中と金泳三、両民主候補によって票が割れ、軍部の盧泰愚が当選した。続く金泳三文民政権では政治経済改革が進められた。

 97年、アジア金融危機の翌年、金大中新大統領はIMFに援助を要請する。

 ――危機の背景としては、クローニー・キャピタリスム(身内資本主義)といわれる財閥大企業の体質や「レームダック」、つまり政権末期で大統領として実権を失って危機の先送りに終始した金泳三政権の責任説などが主張された。

 しかし最大の原因は金融自由化にあるという。

 金大中民主化及び新自由主義政策を進めた。対米協調の一方で、「太陽政策」を進め、北との関係改善を図った。

 おわり

 韓国では過去の権威主義体制による犯罪を追求する動きがある。

 ネットを活用した選挙運動、政治運動もさかんである。

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 光州事件……1980年、全斗煥政権が学生らのデモを空挺部隊で鎮圧し多数の死傷者を出した事件。 

韓国現代史 (岩波新書)

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