うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『異端審問』ギー・テスタス、ジャン・テスタス

 映画『薔薇の名前』(ウンベルト・エーコ原作)において、異端審問の場面が登場したのをきっかけに読んだ本。

 訳者まえがきから……「Inquisition 異端審問をおそろしい集団的・組織的思い上がりの歴史として、人間の弱さの歴史として、この事実を受けとめたい」。

 

 

 異端審問という言葉は恐怖に満ちている。文学作品もそのイメージにより傑作を生み出した。だが異端審問所(宗教裁判所)はスペインで栄える前からヨーロッパ全土で発展した現象である。

 歴史を観察することで見えてくるのは、キリスト教における派閥抗争、さらに異教徒や異人種に対する迫害、ヒステリーの繰り返しである。

 

 第一章 異端審問所の起源

 十二世紀後半、異端は大きな勢力となった。欧州南部ではカタリ派がローマに匹敵する勢力となったが、この宗派はコンスタンチノープルからきた。

 一一六三年のリヨン公会議によるマニ教迫害の決定が、異端審問の起源とされる。グレゴリウス9世による規約――異端者の財産はすべて没収し、住居は破壊する。異端者の存在を知りながら告発しなかったものには、罰金20ルーブル、払わなかった場合は追放刑。彼はこの目的達成のため、教皇庁に属する特別の軍隊を必要としたので、「説教者兄弟団」にこの異端審問の仕事をゆだねた。続いてドミニコ修道会、フランシスコ派も協力する。

 これらを托鉢修道会フランシスコ会ドミニコ会カルメル会、アウグスチノ会)というが、「教皇庁は、彼らに懲罰の権限を与えた」。面倒にかかわることを避けるため、実質権利はすべて彼らに委譲された。これは世俗君主が介入しないことを目的としたのだが、今度はその領地の司教が、自分の権利を制限されるとして不服を申し立てた。 

 フリードリヒ2世は、教会裁判によって処罰の決定した被告は皇帝政府のもとで焚刑に処せられるという王令を発した。

 異端審問制は暫定的な処置が積み重なってつくられた。

 

 第二章 ヨーロッパの異端審問所

 イギリスでは渡英したカタリ派などの異端すべてを追放刑(法律の保護外におく)にしたため、異端審問が猛威を振るうことはなかった。

 欧州の世俗君主は、個人的な恨みを晴らすため、また領土を広げて利益を得るために異端審問制を利用した。

 イタリア……カタリ派異端はイタリアロンバルディア地方で普及し、教皇の住居や枢機卿の邸宅が襲撃された。そのため教皇はローマから逃れた。カタリ派は「パタリーニ」と呼ばれたが、彼らによれば「教会は財宝など一切持つべきでなく、聖職者の身でありながら土地を所有したりすれば、必ずや地獄に落ちるだろう」というのだ。

 何度か異端審問は激化したが、いくつかの強力な都市は、外部の権威をほとんど受け入れようとしなかった。教会側も、「聖霊協会」などの軍隊をつくった。

 フランス……F・ロベール、フランス全土の総審問官は、以前カタリ派のドクトール(先生)であったため、秘密の知識を以って異端の発見に尽力した。彼は過酷な弾圧をおこなった。

 聖庁は調査をベネディクト会のマシュー・パリスに依頼した結果、ロベールの違反や誤謬が多数発見され、彼は無期懲役となり、異端審問は一時姿を消した。

 一二四四年、モンセギュールの砦が陥落し、火がつけられた。カタリ派の中心地が消え去り、「ラングドックの異端にとってもっとも恐ろしい打撃」となった。

 スペイン……スペイン各地の王たちには、「レコンキスタ」、イスラム教徒を追放し国土を回復する運動という、長い仕事があった。ラス・ナバス・デ・トロサの戦い。

ユダヤ人問題と、マウル人を改宗させる問題は、スペインにとってカタリ派の危険以上に重大なものとなっていくのである」。

「当時は、ユダヤ人とアラブ人が、人類の知識を独占していた。アルフォンソ十世のアカデミーにいるほとんどの学者はユダヤ人かアラブ人だった」。

 ドイツ……「十二世紀初頭から、異端はネーデルラントフランドル、ドイツのラインラントに浸透しはじめ、各地に根城ができた」。

 処刑は民衆主導でおこなわれた。

 

 ――聖職者にあらざる二人の人物、コンラート・ドルソと「片目」ヨハンが異端弾圧をおこなった。

 ――「一人の罪人がそのなかにいるなら、百人の無実のものを一緒に焼いてしまってもかまわない」。

 ――この二人にマールブルクのコンラートという元告解師が加わり、数知れない犠牲者が生まれた。マールブルクのコンラートは清貧の暮らしをしており、「狂信的で無慈悲な審問官の典型的なタイプ」だった。

 

 

 だがこの三頭政治は貴族の反感を買い、コンラート・フォン・マールブルクは殺された。コンラート・ドルソはストラスブール近辺で殺され、片目のヨハンは絞首刑になった。

 

 第三章 異端審問のやり方

 ベルナール・ギーの『異端審問提要』は有名である。残虐な異端審問も一定の規律に則って行われた。

 まず村落に説教者兄弟団が赴き、住民全員を教会にあつめて懺悔をさせる。ここで罪を告白したものには身の安全が保証された。一ヶ月を過ぎると、「嫌疑をかけられた人はすべて追及の対象となり、証拠調べをされることになる」。

 投獄された被告は法廷に出頭して訊問を受ける。裁判官たちは真実を引きずり出すためにあらゆる手段を用いねばならぬとされていたので、術策・姦計が利用された。被疑者とおなじセクトに属している振りをした「ムトン(羊=スパイ)」による証拠集めなど。告発者は復讐を避けるため匿名とされた。

 教会は証拠物件よりも自白を好んだ。被告が否認を続けた場合はさまざまな強制手段を用いることができた。未決拘留、鎖、睡眠禁止、断食など……ベルナール・ギー「苦痛は理解のもと」。

 なおも容疑者が抵抗を続けるときは拷問tortureにかけられた。手足を切断するなど死ぬおそれのあるものは禁じられた。

 裁判官は四種の刑罰から好きなものを選ぶ――鞭打ち、これはもっとも軽いものだ。拷問台、吊るし落とし、炭火の刑。のちに足枷と水責めも加わる。いかめしい刑具の前で被告が服をぬがされているあいだ、裁判官は自白をすすめる。一回の責め苦は三十分以内と決められていた。

 判決は「セルモ・ゲネラリス(判決の宣告)」と呼ばれ、スペイン人の「アウト・ダフェ」だ。もっとも厳しい刑罰は財産没収、投獄、死刑だ。異端の罪を撤回しないものには火あぶりの刑にされた。

 罪のあるしるし、汚辱のしるしというものがあった。黄色い十字架を胸と背中の衣服につけねばならなかった。横棒の二本ある十字(ロレーヌ)は、偽りの誓いを立てたものにつけさせた。仮釈放の囚人は黄色い槌ふたつのしるし、人を異端だと謗ったものには、赤い舌のかたちをした布、聖体の秘蹟をけがしたものには、聖餅(ホスチア)の布をつけさせた。

 刑罰としての聖地巡礼というものがある。エルサレムへの巡礼の達成は価値あるものとされたが、十字軍の失敗や、異端者の再帰依により廃れた。

 故人に異端の罪が疑われたときは、死体を掘り出して、すのこに乗せて馬によって町の中を引き回した。そのあと屍体焼却が行われた。

 審問には残虐なイメージがつきまとうが、あまりに残忍な裁判官は免職されたとある。

 

 第四章 宗教改革以前の異端審問

「教会が相手にしたすべての異端のなかで、もっとも頑強だったのがヴァルド派である」。

 ヴァルド派は結局滅びることがなかった。14,15世紀には教皇庁は他のセクト(貧困を称揚するものたち)とたたかわねばならなくなった。

 聖霊主義派(スピリテユエル)は教会の蓄財を非難し、ローマの権威を失墜させたから、ヴァルド派やカタリ派の残党が流入した。これはフランシスコ会原理主義として分離したものたちだ。

 ロラルド派、べギーヌ派など。

「この頃になると、さまざまなセクトが合流して強力な抵抗をするようになっており、その攻撃力はいまや宗教的だけでなく、非常にはっきりと社会的性格を帯びてきていた」。

 異端はドイツで猛威を振るったペストによって一層ひろまった。ロラルド派の新しい長ジョン・ウィクリフ(聖書の英訳)、ボヘミアの改革者ヤン・フス、ヒエロニムス。

「聖書だけが唯一の真理の源泉である」。

 ベーメン兄弟団、ヴェーゼルのヨハンなど、「これらの人物とともに、われわれはプロテスタント革命に向けて大またに歩を進めていくことになる」。

 彼らは皆、宗教改革の先駆者だった。まもなく、マルティン・ルターによる免罪符反対が唱えられる。

 異端審問所はユダヤ人やマウル人も目の敵にしていた。だが、ユダヤ教に忠実なユダヤ人については、これを尊重するよう教会は要求していた。キリスト教を攻撃するようなときに、異端審問所は動いたのだった。

「教会は、偽りの見せ掛けの改宗を恐れていた」。

「ところが、伝染病が蔓延したり、飢饉がある地方を襲ったりすると、農民も都会人もたちまちユダヤ人のせいだといって騒ぎ出し、すべて悪いことの原因は彼らにあるとして告発するのが例であった」。

 ペストの時代にはドイツにおいてポグロムがおこった。

 ユダヤ人はまた金貸しとしても憎まれ、利子をとったりせぬムデハレス(キリスト教支配下で暮らすイスラム教徒)のほうが尊敬されていた。

「異端審問所はしだいに世俗権力に従属するようになり、その手先として、恐ろしい支配の道具と化していく」。

 それを示すのは、フランス王が指揮し、意図的にやらせた聖堂騎士団テンプル騎士団)の裁判だろう。フィリップ王はどうにかしてこの騎士団を潰したかったから、得体の知れぬバフォメという偶像を崇拝しているとして告発した。異端審問が行われ、過酷な拷問で死者が出た。これに教皇クレメンス五世が激怒するが、結局、聖堂騎士団は火刑にされる。

 聖堂騎士団が処罰されたのはフランスにおいてのみだった。異端審問所はフランス王の恣意に従い、その役目はやがてパリ大学にとってかわる。

 キリスト教世界には、もはや統一された教会はなかった。サヴォナローラは腐敗したキリスト教国と教皇を告発したが、火刑となる。この人物は後に新教徒の先駆者とされる。

 

 ルターが現れる頃にはプロテスタントの軍事力が優勢となっていた。カルヴァンジュネーブで自分たちの異端審問所を設立した。

 「悪魔(ディアブロ、ディアブル)」は、キリスト教の成立とともに古い危険な存在である。異端審問は魔女、魔法使い、占者、悪魔の祈願者にも適用された。異端と悪魔崇拝(サタニズム)の明確な区別をつけるのは難しかった。農民のあいだにも悪魔崇拝はひろまった。ミシュレ曰く「地獄そのものが、この世の地獄から身を守る避難所であり、隠れ家とさえ見えた」。

 セレスタのヘンリクス・インティトールと、ヤーコプ・シュプレンガーという二人の審問官が『魔女たちの槌』を公刊した。この本をもとに、ドイツで魔女狩りが始まった。血も涙もない審問官ニコラ・レミ。彼は十五年ほどの間に八百人ほどの魔法使いや魔女を焼いたが、一六〇〇年、自分も悪魔崇拝者だと告白する。

 プロテスタント諸国においても魔女狩りは熱心に行われた。アメリカではセーレムの魔女事件が有名である。

 

 第五章 スペインの異端審問

 レコンキスタの存在、またユダヤ人が多かったことでスペインの異端審問は特別な意味をもつ。ポグロムを恐れて大量のユダヤ人がキリスト教に改宗したが、彼らを「マラーノス」という。マウル人とはムデハレスのこと。

 フライ・トマス・デ・トルケマダの「治世」、異端審問による処刑者は二千人にのぼった。

 スペインの拷問では、「教会は血を忌み嫌う」の文句にならい、流血のないものが用いられた。水責め、ひも責め(コルデレス)、吊るし落としの刑など。

 聖庁がとくに目をつけたのは、マラノス以外では、マウル人、アルンブラドス(照明派)、プロテスタント、そして魔女だった。

異端審問 (文庫クセジュ)

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