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うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『わが読書』ヘンリー・ミラー

 ヘンリー・ミラーの書物についての見解、読書遍歴。著者にとっては本を読むことが大きな意味を持っていた。また、当時の現代社会(1920~30年代?)に対して強い批判を行っている。人間は成長するにつれて委縮していく。

 少年の選択――軍隊へ入るか、浮浪人の仲間入りをするかどちらかだ。そこから個性の問題がはじまる。
 

 ◆ライダー・ハガード

 レヴィの言葉「およそ何によらず名辞あるものは存在することを吾人は指摘しよう。言葉は空に発せられるかも知れぬが、言葉自体は空ではありえず、したがってそは必ず意味を有する」

 ――彼がわれわれに理解させようとしていることは、おそらく生と死とが双生児であり、ただ一度だけわれわれは生の奇蹟を経験する以上、死の奇蹟もただ一度だけは味わうのだということ。「個性の謎」「死ぬるとは存在をやめることでなく、切りすてられることである」

 

 

 ◆ジャン・ジオノ

 ミラーは一度も会ったことがない、だが手紙の交換は行っている。彼の作品はフランスの農村の牧歌的な光景を持っていて、すべての根底にそれがある、フォークナーのように、むしろ、ジオノの作品はジオノ自身の世界なのだ。彼の作品は、飢え、渇いている人すべてに受け入れられるだろう。

 

 彼は反逆者であり、自分自身であることの重要性を解く。ロレンスはフランスを退廃的で病んでいるとして拒絶したが、彼がプロヴァンスへ旅していればよかったろう、二人とも「豊かな生命を要求」した――ジオノは生の賛歌において、ロレンスは憎しみの賛歌において。

 

 人は、ある作家にたいして自分の考えていた像と、その作家が異なる行動を示すことで、「あの作家ももうだめだ」とか「むかしはああじゃなかったのに」などという、特に処女作が広く受け入れられた場合は、後の彼自身が省みられずその最初のイメージで捕らえられてしまうことが多い――批評家はそのイメージを振りまわして、作家をオモチャにするだろう。無垢なもの――自分の意見を鼻にはかけないが、感動する力は持っている単純な人、単純ではあっても作家を心から愛し、傾倒し、作家に忠実な人――がもっともよくその作家を見ることができる、自分の像と違う作家を、さらに大きな作家像のなかに取り込むことができる。

 ミゲル・デ・ウナムノ曰く、政治、道徳、経済それらはすべて根源的な問題から目をそらすためにまくしたてられるものだ――人間の問題だ。「ジオノはこの人間の問題に正面きって対している現代の作家の一人である」。

 ジオノとトルストイは二つの目標を追求した、それは可能な最大の幸福と可能な最大の善である。道徳的動物、政治的動物ではなく、人間がまず人間として、人類が全体として考察されるべきなのだ。

 「汝のあるがままなれ、ただし極限まで!」とジオノは言う、そしてミラーはフランスそのものであるジオノをアメリカに広めようとする、そして彼はジオノとフランスならジオノを選ぶだろうと言う。


 ◆影響

 ミラーによれば好きな作家がどのような本、著者に影響を受けたかを知りたいというのは原始的なゲーム、鬼ごっこである。ミラーは本に影響されただけでなく、本を通して思い浮かんだ国にも影響を受けた。そして知人たち、「生きている書物」彼らの発言、思想、行動すべてが混交したものもまた影響のひとつである。

 人は生きることと同じように本についても無目的に、だらだらと惰性で読んでいるが、彼らはさらに眠りに落ちるだけである、覚醒しているものだけが「書物を楽しむことができる」。

 自ら生き、自ら考えることがほんとうの読書である。

 

 幼年時代の本は「神秘やヒロイズムや超自然、怪異にしてありうべからざること、あらゆる種類、あらゆる軽重の犯罪や恐怖、残虐性、正義と不正、魔法と予言、倒錯、無知、絶望、疑惑、死」を含むもので、彼の人生観、生活のリズムを決定した。これに対して思春期以後の愛読書は部分的に影響したに過ぎない。

 聖書についてはその伝えることより「言葉」にひかれたという。


 ◆生きている書物

 作家志望時代の隣人についての思い出。

「金もなければ職もなく、自分が何をしたいのだか、何がいったいできるのだか皆目わからず、おれには何の才能もないのだと思いきめて――鉛筆で十二行も書いてみれば、この考えを証明するのには十分だった――」

 

 現代人、とくに若者は精神の糧を文学から得ることをしなくなっている、もっぱら政治的解決のみに頼っている、書から生へと目を向けるのではなく、政治にだ、そして現代は生と死――これはほとんど同じものだ――の恐怖にとりまかれた時代だ。創造と絶滅とのあいだの争点が、「きみはこの〝生の書″を読むことができますか?」

 ――個人はいまや、その意思に関せず社会と同一化されてしまった。社会は諸個人からなっていることを認識できる者はもはや寥々たるものだ。もはや個人とはそもそも誰であるか? 個人とは何か? そして社会とは何か? もしそれがもはやそれの成員たる諸個人の総計あるいは集合えはないとするならば?

 ジョン・クーパー・ポウィスについて……個人の権利と特権とに対する至高の尊重の念をもっていた、そしてすべての生命的(ヴァイタル)な問題は関心の対象になり、死せる時代と死せる文献から普遍的な人間の性質をもぎとることができた。


 ◆創造について:自由を知っているものは一語も書きはしない、驚異への飢えをもって書物を読むことは追従ではない、自らの光を放つのだ。

 

 ◆クリシュナムルティ

 ミラーにとっての人間の驚異というものがどのようなものであるかがわかる、それは単純だ、信じがたい人間と人間の業績だ。彼はピラミッドや英雄にたいして人間の驚異と言っているのである。

 

 クリシュナムルティは、インド出身のグルで、あるときから教え子全員を解散させ、「組織では真理には到達できない」「何も知ることはできない」と訴え続けた。

 ◆アブラハムの高原

 戦争、軍人、戦場について書かれた章である。彼は自分のなかにフレンチ・インディアン戦争南北戦争、プラタイアの戦いが強く印象付けられているのだと語る。また戦争というものはすべて国家の利益のためであると語る、そして歴史はすべて自分たちの手に委ねられる。

「どんな問題でも深く観察しはじめると、いかに知られていることが少ないか、いかに多くのことが憶測、仮説、推断、予想にすぎないかがわかってくる。どこでも深く突込んでみると、かならず偏見、迷信、権威の三頭の幽霊にでくわすのだ。重大な教訓ということになれば、われわれの教育のために書かれたほとんど全部のことがガラクタ化してしまう」

 そして彼は神話、寓話、伝説の重要性を挙げ、伝記、歴史哲学を読むようになるのだと言う。純粋な想像力の飛翔と真理の直観的理解力に重きを置き、それによってリアリティを確立しようとする英雄、それこそが詩人であると主張する。

 大人と子供、「われわれが教わるすべてのことは偽りだ」というランボーの言葉は、大人の虚偽を受け入れない子供が容赦なく罰せられることをあらわしている。

 子供は服従させられ、読書によって心をうちあけ、夢想に逃げ込むのである。

 ――発明のちからにおいてとはいわぬまでも、発明の範囲において、現代の人間は歴史のいかなる時代よりも神に近づいている。(と、そうぼくらは信じたがっている!)しかも今日ほど人間が神に似ていない時代はない。……人間には驚異の念がない、畏怖、尊敬、熱意、活力、ないし歓喜の念がない。人間は過去から何の結論もひきださず、現在に平和も満足も感ぜず、未来についてはまったく無関心である。人間は足踏みしている。

 

 ◆ヨーロッパとアメリカ

 ミラーはパリでシャーウィド・アンダスンとドス・パソスに出会う。セオドア・ドライサーは、憂鬱で、リアリスティックで、厚みがあるが、アメリカ的色彩とドラマとのゆたかな情熱的小説だった。

 アメリカ作家とヨーロッパ作家の空虚さの違い……ヨーロッパのエッセイに比べてアメリカの批評的、解説的エッセイは無味平凡だ。だが人生の生の体験をぶちまけることになると、アメリカ人はヨーロッパ人を揺さぶることがある。ヨーロッパは屋根から、大空からつくりはじめるが、アメリカの作家は生により深く根ざし、同化しているようにおもう。

 

 ◆ドストエフスキーホイットマン

 ドストエフスキーホイットマンを挙げて、ミラーはアメリカとヨーロッパの相違を提示する。ホイットマンは民主主義者――ぼくが民主主義者という言葉を使うとき、それはユニークな自己充足的なタイプの個人を意味し、その忠順はどんな政府も彼を市民として包容するに十分なほど大きく、賢く、肝要にはなりえていない、そういう人物を言い表すものと諒解してもらいたい――であった。

 ドストエフスキーは心の奥をかき乱すが、ホイットマンの中には高邁なたくましい風が吹いていて、病を治す性質のものである。ホイットマンに神の問題はない。だが二人とも予言者であった。

 ドストエフスキーホイットマンの差は、激情(passion)と同情(compassion)の差だ――ホイットマン作品は……そこには大まかな人間味、壮大で永遠的な〝自然″がある、そして大いなる精神の息吹がある。

 ――すなわち、凡庸なものこそはすべてを通じてのもっとも壮大なるものであること、いかなる方面でも例外的なものは通常なものよりも立派でも善くもうつくしくもないこと、そして、真に欠けていることは、我々が我々の現在もたぬものをもつことではなく、我々のすべてがもっているのを見るために我々の眼を、感じるために我々の心を、開いておくことであるということ。

 そしてミラーによれば彼の思想とは解放、自己解放である。

 エリー・フォールのホイットマンからの引用、「彼自ら完全なる人間にとって、世界は完全であるだろう」。


 ◆労働

 彼は電報会社の雇用主任として働いていたことがある、その経験は「人間が職などというものをこうも恥知らずに他人に哀願できるということに腹を立てさせる」ものであり、電報配達夫たちにとってミラーは神だった――そして神たることは、贋物、まがいものとしてにすぎぬとしても、人間の見出しうるもっとも荒廃的な立場だといっても過言ではなかろう。

 ◆

 ――われわれは今、偉大な人間的闘争の前夜にいる。旧制度に反抗しつつあるものが人間の魂である。アメリカの占星学者デイン・ラディヤァ、彼は来るべき時代を「黄金の器」を抱ける神秘な力を持つ人類、豊富な時代、また物神崇拝、頑迷、不毛な形態の崇拝、不正な社会契約の条件、生の奇蹟を死の儀式と化したもの、そういうものが終わりになる時代であると語る。新生命(ニュータイプ)があらわれる前に腐敗はすべてに及ばねばならぬ。


 ◆トイレでの読書

 ミラーは無職の期間が長いが、仕事をしていたとき、読書を困難な条件のもとで多く読んでいた。一番難しい本を読んだ。

「ぼくはいつも不愉快な姿勢で読書していたような気がする」

 

 テレビ、ラジオなどで報道をむさぼる人人は、「本当は、これら気の毒な人たちは働いていないとき、忙しくないとき、一種の空恐ろしいような、胸の苦しくなるような空虚を、心の中に自覚するのだ」。

 自分自身と直面するのを避けること、自分の個人的課題について熟考することを欲したくないのだ。

 

 ◆演劇

 ミラーは戯曲、演劇に小さいころから親しんでいた。彼はニューヨークの下町で育ち、芝居には縁があった。彼は小説に劣らぬほどの戯曲を読んできたが、決定的にひきつけられるようになったのはエマ・ゴールドマンの講演を通じてロシア戯曲を知ってからである。それはギリシャ戯曲や中国の詩、哲学と同じくらい親しみやすいものである。

「それらのものに、ぼくはいつも真実(リアリティ)と知恵をみいだす」。

 だが飽きないのはアイルランドの劇作家だ。ダイナマイトのようなイプセンに比べれば、バーナード・ショウなど「阿呆なおしゃべり、お喋りな阿呆」にすぎない。

「書物はぼくらを分離させ、演劇はぼくらを結合させる傾向をもつ」。

 舞台の会話は本や町の会話とは違い、もっとも忘れられない文章が比喩譚であれば、言説は演劇である。ぼくらの頭のなかを流れてやまぬ叙唱文にくらべれば、口に出すこ言葉は極小に等しい。

 ――ぼくらはこれらの他国人に次々になりすまし、そうなることによって一層ぼくら自身に、一層人間的に、一層宇宙的自我に似た存在となる。ドラマを通じて、ぼくらは共通的でしかも個性的な同一性を発見する。ぼくらは自分たちが地球に縛られてると童子に星へも運命づけられていることを認識する。

 ◆著者に影響を及ぼした百冊(抜粋)

 エリザベス朝戯曲

 ギリシャ神話および伝説

 アーサー王の騎士物語

 アベラール『わが不幸の物語』

 フルニエ『放浪者』

 エドワード・ベラミイ『回顧』

 ハイレア・ベロック『ローマへの道』

 ボッカチオ『デカメロン』

 ブルワー・リットン『ポンペイ最後の日

 セリーヌ

 チェスタトン

 フェニモア・クーパー

 デュアメル

 デュ・モーリア

 エッカーマンゲーテとの対話』

 エマスン『代表的人物論』

 アンリ・ファーブル

 エリー・フォール『美術史』

 ジード『ドストエフスキー

 クヌート・ハムスン

 ヘンティ

 ユイスマンス

 カイザーリング『南アメリカ瞑想録』

 ニジンスキー『日記』

 プルタルコス

 プレスコット

 ウォルター・スコット

 シュペングラー、

 ソロー 

ヘンリー・ミラー全集〈第11〉わが読書 (1966年)

ヘンリー・ミラー全集〈第11〉わが読書 (1966年)