うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『無門関』

 中国宋代の禅僧無門慧開による公案集。

 形式としては、禅僧たちの問答を紹介したあとに、慧開がその問答にけちをつけるというものである。禅僧たちの問答も意味不明だが、それに対する慧開の批判も難しい。

 パタン……□□は何か? に対し、こうだ、と答える。それに対し、批判をおこなう。または、禅僧の模範解答を非難する。弟子に答えを教える師匠の行為を非難する。

 とっぴな行動、言動が目立つ。

 

 僧たちの不気味な動きの例……

 1 グテイの処にいた童子が、あるとき外からやってきた客に、「ここの和尚はどのように仏法の肝要を説いておられるか」と尋ねられ、直ちに指を一本立てて見せた。これを聞きつけたグテイ和尚は、刃をもって童子の指を切断してしまった。

 2 南泉は仕方なく猫を斬り捨ててしまった。晩になって、高弟の趙州が外から道場へ帰ってきたので、南泉はこの出来事を趙州に話された。話を聞くと趙州は、履いていた草履を脱いで自分の頭に載せて部屋を出ていってしまった。

 3 「たとえば水牛が通り過ぎるのを、窓の格子越しに見ていると、頭、角、前脚、後脚とすべて通り過ぎてしまっているのに、どういうわけで尻尾だけは通り過ぎないのだろうか」

 4 「路上で禅を究めた人に出会った場合には、ことばで対しても沈黙で対してもいけない。さて、そうとなれば何をもって対すべきであろうか」

 5 雲門和尚はある僧から、「仏とはどういうものですか」と尋ねられて、「乾いたクソの塊じゃ」と答えられた。

 6 「そもそも禅に参じ仏道を学ぶものにとって、もっとも気をつけるべきは、周りの世界の音や形に引きずられてはならないということだ。……ところで、それはともかくとして、言うてみよ。いったい音が耳の方へやってくるのか、耳が音のほうへいくのか、どのところをどう説明するかである。もし、声を耳で聴くようではここのところは分かるまい。眼で声を聞いてこそ、はじめて声と一体といえるであろう」。

 

 無門慧開によれば、□□は△△だ、と理屈だって説明するだけでなく、そもそもことばで何か説明するだけで間違いになるようだ。黙っているか、突飛な行動をはたらいて、その場を立ち去るのがいいのだろうか。

  ***

 本編に付属した献辞について。

 ――それらは、禅に参じる修行者たちが、脳みそをひっくり返し、目玉を剥いて、1人1人がしっかりこれらを受けとり、決して他人に追随して答えを求めるようなことのないように配慮されている。……もし無門関を通り抜けることができるならば、すでにこの無門を超えたことになるし、もし無門関を透過できぬとなると自分に対する裏切りになる。

 ――さて、それでは禅をどのように実践すべきであろうか。この人生において努力して結論を出さねばならない。憂いを永久にとどめるようなことのないように。

 ――我が手は仏の手と比べてどうか。枕のうしろ辺りを手探りして、思わず笑ってしまったよ。もともと身体全体が手だったのだ。

 禅のたとえ話には、理解の助けにならない不可解なものが多いが、そういうことばの使い方だと思えばそれはそれで新鮮である。

 ――まるで油餅を売る人が、それを買う人の口をあけて突っ込み、呑み込むことも吐き出すこともできないようにするようなものだ。それで足らず、この私はその熱く焼けた鍋を使って、もう1枚の油餅を焼き上げ、易にいう大衍の数すなわち四十九則にして無門和尚の前例にならって世に送り出そうと思うのである。

無門関 (岩波文庫)

無門関 (岩波文庫)