うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『世論』リップマン (1)

 ◆所見

 民主主義と報道、情報を考える上でとても参考になった本。

 民主主義は様々な政策決定に国民が関わる。正しい判断をするためには正確な情報が必要である。しかし国民が自分の生活圏を超えた事項についてそうした情報を得るのは困難である。このため、われわれは自分や身の回りの固定観念やステレオタイプに従い、または嘘や宣伝活動に騙されて判断する。

 いかに正しい情報を得るのかが民主主義運用の上で決定的となってくる。

 

 人びとがふだん、外界のものごとをどうやって判断しているかを考える。われわれが生活する領域は限られており、それ以外の、公的なできごと、広い世界、「大社会」のできごとについては、わたしたちは、伝聞を通じてしか知ることができない。しかし、直接経験しない外界のできごとは、わたしたちから遮断されており、また情報をうけとるわたしたちの精神もさまざまなかたちで本来のものをゆがめてしまう。

 わたしたちはゆがめられ、けずられた事実を摂取し、さらに、わたしたち自身の眼もくもっている。わたしたちは見たいものを見る。

 なぜ、このような情報入手が問題なのかというと、民主主義は、公的なことがらの判断・決定を、われわれ国民にゆだねているからである。わたしたちが、自分と直接関係のない物事を決定する際に参考にするのは、伝聞、ニュース、マスメディアである。こうした媒体を通じて、世論(public opinion)が形成されるが、世論はしばしば問題をもっていたり、欠陥をかかえていることが多い。

 この本では、まずわたしたちが外界を認識・理解する際の変調要素を説明する。そして、これが民主主義にとって根本的な欠点になることを主張し、さいごに、われわれが正しい・妥当な決定をくだす手がかりとして、政府や軍隊によるインテリジェンス活動を紹介する。

  ***

 ――われわれが政治的にかかわりあわなければならない世界は手の届かないところ、見えないところ、知のおよばないところにある。だから、探索し、報告を受け、想像をめぐらさなければならない。

 ――以下諸章では、人びとが外界と交渉をもつときあたまの中のイメージがなぜこのようにしばしば人びとを誤らせることになるのか、その理由のいくつかをまず探る。

 著者はこうした事実をゆがめる要素を、人為的な検閲、社会的接触を制限するさまざまの状況、一日のうちで公的な事柄に注意を払うために使える時間が比較的乏しいこと、その他、また、「人びとの生活のなかにすでに溶けこんでいる習慣をおびやかすようにおもわれる事実に直面することへの恐怖」等に見出す。

 根本の情報収集に欠陥が多いため、民主主義は不満足な結果しか出せていない、と著者は考える。

 ――わたしは主張したい。政治とふつう呼ばれているものにおいても、あるいは産業とよばれているものにおいても、選出基盤のいかんによらず、決定をくだすべき人びとに見えない諸事実をはっきり認識させることのできる独立した専門組織がなければ、代議制に基づく統治形態がうまく機能することは不可能である。……見えない事実を代表するものによって、見えない人たちを代表する人たちが補完されなければならないという原則を真摯に受け入れなければならないと。そのことによってのみ、権力・組織の分散も可能であろうし、われわれ一人一人があらゆる公共の事柄について有効な意見をもっていなければならないという、できるはずも機能するはずもないフィクションから脱出することができるのだ。

  ***

 検閲……事実はふつう、その発生現場によって遮断され、外にひろまらないような処置をほどこされる。このため、われわれには不完全な情報として伝わってくる。

 ――フランス国側はこうこうしかじか考えているよ、とかれが知らせてきたとき、かれはフランスのどの部分を観察していたのか。どのようにしてそれを観察できたのか。かれがそれを観察していたとき、かれはどこにいたのか。かれはどのようなフランス人に語りかけることができたのか。どんな新聞を読んだのか。どこでそのフランス人たちは自分たちの言っていることを知ったのか。このような事柄を自問しても、答えることはまずできまい。しかし、そうした質問を自らに発することで、公の出来事にたいする自分の意見と、その出来事との大きな隔たりをおもいだすことができる。そして、それをおもいだすこと自体が危険をふせぐひとつの方法となるのだ。

 検閲と秘密保持(プライヴァシー)が情報源を隠蔽する一方、そこを潜り抜けた事実もだいぶゆがめられ、あやふやになる。

 われわれの社会は無数の、同類の組織集団から成り立っており、集団間には情報の隔たりがある。

 ――かれらは型にはまった生活をし、自分たちだけの問題に閉じこもり、より大きな問題はしめ出し、自分たちと同類の人でなければほとんど会わず、読書量も少ない。

 われわれはどこかしらの社交仲間の環に属しており、この環のなかから物事を見る傾向をもつ。

 ――われわれが世界と精神的接触をもつ際に社交仲間が果たす役割がいかに大きいか、それをあたまにしっかりと入れておきたいだけである。……それぞれの社交集団は、集団が現にもっている処理能力で間に合う事柄であれば、なんとか独力で決断する……。

 ――どのような地位にいて何と接触するかは、何を見、聞き、読み、経験できるかを決定するだけでなく、何を見、聞き、読み、知ることが許されるかを決定するうえでも大きな役割を果たしている。

 よって、無私の眼、公平な観察眼を要求される建設的な意見よりも、てっとりばやい道義的判断(よいわるい)のほうが簡単に持つことができる。

 そのほか、日常生活においてわれわれが情報収集に割くことのできる時間や費用、ことばの使い方、言語などのさまざまな要素が合わさって、われわれの現実把握能力はたえず妨害をうけている。

 ――……われわれの世論が問題とする環境はさまざまに屈折させられている。情報の送り手のところでは検閲と機密性を理由に、また受け手のところでは物理的、社会的障壁によって、あるいは不注意によって、言語の貧しさによって、注意力が散漫なことによって、虫の居所によって、疲労や涙、暴力、単調さによって……

  ***

 偵察の基本にもとづいた現実把握は、手間のかかる、また負担の多いものである。よって、わたしたちは現実を紋切り型でとらえて処理するために、ステレオタイプをもちいる。ステレオタイプはわたしたちの世界観をつくる強力な道具だが、そこには弊害もある。

 「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る」。

 ステレオタイプによってわれわれの偵察はそこなわれる。「すでに受け入れられているさまざまな形式、現在はやりの類型、標準的解釈」などが、情報を意識に届く前にさえぎってしまう。

 ステレオタイプを採用する理由は次のとおりである。

 ――このような事情には経済性という問題がからんでいる。あらゆる物事を類型や一般性としてでなく、新鮮な目で細部まで見ようとすればひじょうに骨が折れる。まして諸事に忙殺されていれば実際問題として論外である。

 日常生活は忙しいので、すべての人物を、総合的に理解したり、すべての事柄を偵察にもとづいて理解する時間はない。われわれが心がけるべきなのは、「それがたんなるステレオタイプにすぎないことを知り、それらを重く考えずに喜んで修正しようとする」ことである。

 ステレオタイプはまた、「われわれの個人的習慣の核ともなり、社会におけるわれわれの地位を保全する防御ともなっている」。

 ステレオタイプの描く世界像は秩序だてられており、一定の価値基準をもっている。ステレオタイプに混乱が生じることは、われわれの宇宙の基盤がおびやかされたように感じられる。

 ステレオタイプをつねに考察し、整理、標準化し、改良するものがいなければ、「大方のわれわれはかなり偶発的で変動の多いステレオタイプの組み合わせを通じて物事とかかわりあうことになるだろう」。

 ――……ステレオタイプは忙しい生活のなかで時間を節約し、社会におけるわれわれの位置を守る役目を果たすだけでなく、世界を確実に見つめ、その全体を見わたそうとする試みによって生じるあらゆる困惑からわれわれを守ることにもなるのである。

  ***

 ものをよく見なければ細かいところには気がつかない。

 ――実際のところ、どんな分野であれわれわれが専門家になるということは、われわれが発見する要素の数をふやすことであり、それに加えて、あらかじめ期待していたものを無視する習慣をつけることである。無知な人びとにとってはあらゆるものがおなじように見え、実人生も似たりよったりであるのに対し、その道の専門家にとって物事はまったく個々別々のものである。

 ――実際の世の中では、証拠の出るずっと以前に、そうした判断が真の判断とされることが多い。そして証拠が必ずや確認するはずの結論を、その判断自体のなかに含んでいるのである。……この判断は証拠に先行してしまっているからである。

 ものの見方はその人間の規範に深く影響している、いや、その人間の規範そのものになっている。「自分たちの意見は、自分たちのステレオタイプを通して見た一部の経験にすぎない、と認める習慣が身につかなければ、われわれは対立者に対して真に寛容にはなれない」。

 ――人びとはいわゆる「問題」には裏表があるということは進んで認めるが、自分たちがいわゆる「事実」とみなしているものについては両面があることを信じていないからである。

 われわれの現実把握は時間、空間、ことばの使い方、さまざまなレベルで、ステレオタイプによって整形されてしまっているので、これを検知し、見たまま聞いたままを心がける必要がある。そのために必要なのは長期の訓練と教育だと著者は書いている。

  ***

 自分の利害がからむと感じたとき、人はその事柄に強い関心をいだく。著者は、文化のさまざまな面でこうした利害関心をひく手法がつかわれていることを示す。

 芸術においては、受け手にとってなじみやすい方法を採用することで、支持を得る方法が用いられている。

 ――かれらによれば、芸術作品とは、自分たちが乗れるようにステップのついた乗り物でなければならない。これに乗ってはるか田園地帯を走るのではなく、ほんの一時間ばかりタイムカードを押す必要もなく皿洗いをしなくていいところへいくのだ、という。

 中間クラスの芸術家は、偉大な発明家のものとロマン主義的なものを混合させる能力がある。かれらは現実ではみたされない規範を提供してくれる。

 おなじような、受け手のこころをくすぐるものに政治的イデオロギーがある。

  ***

 人びとが外界のできごとを理解するとき、その脳みそにはどのようなことがおこっているのか。かれらが外界の事柄を聞くとき、「かれのなかにすでに定着している型を通して考え、自分の感情で創造し直す。かれが自分の個人的問題をもっと大きな外界の標本の一部として見ることはない。かれがもっと大きな外界に関する話を語るとき、それを自分の私生活をそっくり拡大したものと考えているのである」。

 あまりに私生活とへだたったところでは、人びとはさまざまな現実把握をおこなう。

 ――このようにして、自分自身の生活の幸福を一般的な善意に投入するようなもっと平均的な人びと、あるいは自分の不幸を一般的な疑惑や憎悪に投入するようなもっと平均的な人びとのほかに、幸福そうに見えても自分の属する集団以外のところではどこであろうと残酷非道になるような人びともいれば、自分の家族、友人、仕事を嫌う気持ちがつのるほどに人類全般に対する愛がより豊かにあふれるような人びともいるのである。

 人の人格は不動ではないので、そのときそのとき、場所によっても、外界への接し方や把握方法は変化する。また、常に変化する環境に適応するためにはそうした眼鏡のかけかえが不可欠になってくる。

 ――人が経験することになるかもしれないあらゆる状況に対応できるような、さまざまの性格を用意するということは道徳教育のひとつの機能である。その教育が成功するかしないは、どれほど誠実にまたどれほどの知識をもってその環境を探索するかということにかかっていることはたしかである。なぜなら、誤って把握された世界ではわれわれ自身の人格も誤って把握され、われわれは行動を誤る。

 われわれの生活には嫌悪すべき場面が多々あるが、これに対応するような行動パターンを教えることが教育者の作業のひとつだと著者は考える。

 マルクス主義その他の社会思想は、著者によれば、誤った現実認識の一例である。

 ――両理論とも生まれついての諸性質が、必然的にしかし賢明に一定の行動型を生み出すと仮定する。社会主義者は、そうした諸性質がひとつの階級の経済利益を追求すると信じている。快楽主義者は……(略)……「結果に対する見通しもなく、それを実行するための予備教育もないのに、一定の結果を生み出そうとして行動する機能」と定義した見方によっているのである。

 人間は利己主義的であり、利益を追求するが、それがどのような利益か、どうやって追求するのかは、あらかじめ運命によって決められているわけではない。

 ――もしぜひというなら、人は自分の生きているうちには善しと認めることのできる変化はないだろうということはできる。しかしそれをいうとき、かれは自分の心をもって見うるものを拒み、自分の目で見えるものだけに自分の人生を限定しようとしていることになる。かれは善しとするものを測るものさしとして、自分が偶然もっているものさしだけをつかうことになる。知られていないものは知ることができないものと決めこんでしまう道を選び、だれもが知らないことは将来にわたってだれ一人知ることができないものだと信じ、これまでだれかが学習したことのないことは将来にわたってだれも教えることはできないのだと信じる道を選ぶからこそ、自分の最高の希望を放棄し自分の意識的努力をゆるめる口実を見つけることにもなるのだ。

  ***

続く

世論〈上〉 (岩波文庫)

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世論 (下) (岩波文庫)

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