うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『中国共産党史』シュウォルツ

 共産党、中国における共産党の発足から、指導者の交代、毛沢東による共産主義運動の勝利までをえがく。中国共産党の誕生は、大きくわけて、陳独秀らによる創設、国民党との協力、?秋白の時代、李立三の時代、毛沢東による主導権の奪取等の項目となる。

 この本ではとくに、国民党とのかかわり、ソ連およびコミンテルンとのかかわり、マルクスレーニン主義と、中国共産主義のかかわりについて着目する。

 

 陳独秀ははじめ、民主主義と科学こそが中国の苦境を打破することができると考えていた。また、李大劉は、形而上学的な思想に傾倒していた。かれらの思想は、ロシア革命によって変化し、ロシア革命の提供する「メシア的託宣」を受け入れることになった。

 マルクス主義と対等にあるのが、たとえばデューイの思考である。デューイとラッセルは1919、20年に訪中し、青年にむけて講演した。

 ――事実は法をつくりだす力をもっているが、法は事実をつくりだす力をもっていない。

 デューイは、「人類の政治的経済的困難を包括的に解決する方法はない」と考えていた。問題には個別的に対処し、中国に民主主義を根付かせるには「長いあいだの非ドラマティックな活動」が要求される。インテリは、人民の背後で謙虚な役を演じなければならないだろう。

 ――レーニンの帝国主義論は、中国のインテリゲンチャを、壮大な、まったくメロドラマティック的な世界像に当面させた。この理論のなかで、後進地域のみじめさの責任は、ほとんどすべて国際金融資本にかぶせられていた。

 

 マルクスとレーニンによって、中国共産党の歴史がはじまったとシュウォルツは書く。かれによれば、中国知識人は安易な方向に流れて、「徹底した全面的な解決を提供する世界観」にとびついてしまった。

 以後、共産党は、学術サークル的なものから、ソ連の指導によって、徐々に、エリート組織、運動組織に変化していく。この過程で、国民党と協力するかどうか、また、党の方針をめぐって、コミンテルン共産党幹部たちが抗争・対立をくりかえした。

 毛沢東は瑞金のソヴェト区を拠点に勢力を拡大した。やがて、中国共産党毛沢東の力なしには立ちいかなくなり、共産党司令部の瑞金移転によって、毛沢東が指導者となった。

 

 毛沢東戦略の特徴は以下のとおり。

 ――本質的には、毛沢東戦略は、レーニン主義の原則にしたがって組織されたマルクス・レーニン主義が持つ一定の基本的教義の信念によって鼓舞された政党を、純粋な農民大衆的基盤のうえにおいたものである。
 毛は、武装ソヴェト発展の条件に、大衆的基盤、強力な党の指導、強力な紅軍、革命根拠地の支配をあげている。また、根拠地は自給力をもっていなければならない。

 毛は軍事力の重要性について、レーニンと同様はっきりと認識していた。

 シュウォルツは、共産主義の思想的な問題、神学じみたつじつまあわせの問題についても分析している。

中国共産主義は農民の力を基盤にしたもので、プロレタリアートは大した影響をもたなかった。しかし、毛はこの事実をうまくごまかし、また、ソ連も、細かい教義と事実の食い違いについて、見て見ぬふりをし、毛が中国を掌握したとき、これを承認した。農民が主体であり、都市労働者が不在である点については、「ソヴェト制度」を強調することでうまく隠ぺいした。

 このため、トロツキー等、中共を否定するものもいる。シュウォルツは次のように考える。毛沢東指導下の中国共産党は、「レーニン主義の方針によって組織されてはいるが、その上層部を中国社会のいろいろな階層からひきだしている、政治的に明確な見解をもった指導者たちのエリート集団」だった。

 マルクス主義は、レーニン、スターリン毛沢東と、徐々に「変質しており、正統的な深化をとげているわけではない」という。

 著者は中国共産党に、マルクスレーニン主義の要素が強く含まれていることを指摘する。まず、革命家たちが自らをマルクスレーニン主義であると自覚している。次に、「党が歴史的救済の唯一の機関である」という、ヘーゲルマルクス、レーニンの思想の核が、かれらの主張にのこっている。また、党組織についてのレーニンの考えが見られる。党における全体主義の傾向や、帝国主義論的な言説は、レーニンの影響である。

 ――したがって、要するに、中国共産主義は、共産党と産業プロレタリアートとのあいだの必要な有機的関係がまったくかけていたことを事実上決定的に示すものではあったけれども、その運動は、マルクスレーニン主義的伝統のある基本的要素をなお依然として保持しているのである。

 

中国共産党史 (1964年)

中国共産党史 (1964年)