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『宮中からみる日本近代史』茶谷誠一

 「宮中」とは元老、内大臣、宮内大臣侍従長その他を含む政治勢力であり、戦前においては他の国家機関に匹敵する影響力を持っていた。

 明治憲法体制は、宮中、元老、議会、内閣、軍部がそれぞれ天皇に対し責任を負う多元的な体制であり、国家意思を一元化する機能に欠けていた。

 本書は宮中という政治勢力から日本の近代史を概観する。

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 表向きは上に書いたような趣旨だが、本書を読んで強烈に伝わってくるのは、天皇及び宮中にも敗戦責任が間違いなくあるという認識である。

 側近である宮中や西園寺公望は、天皇の権威を失墜させること、天皇に何らかの責任が及ぶことのみを絶対に回避しなければならなかった。そのため、権限を行使できるときにそれをしなかった。

 戦争末期から終戦直後にかけて、指導者たちが懸念していたのは天皇制の存続可否である。原爆投下後のミーティングでは、ポツダム宣言において天皇制存続が認められなければ、本土決戦をすべきである、というのが軍、宮中、官僚含む首脳陣の総意となった。この姿勢は国を指揮するものとしてどうなのか。

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 1

 1889年、帝国憲法制定によって、宮中制度も整備された。宮内大臣宮内省を指揮し宮中事務を取り扱う。宮内省のなかでも侍従長以下侍従職がその主要業務を担った。内大臣は宮内省の外局として置かれ、天皇に対し常侍輔弼を行った。

 始め、宮中は元老の影響力の中にあり、伊藤博文、山縣、桂らが人事をコントロールした。山縣は裕仁の婚約者に解消を迫る宮中某重大事件を起こすが政治的に敗北し、影響力を失った。

 宮中に入ることは明治では政治家としての立身出世からはずれることを意味した。

 この時代には、軍部を抑制するために元老が影響力を行使していた。しかし、統帥権の問題は後に深刻化していく。

 

 2

 大正天皇の健康状態が悪化し、裕仁が摂政となる。西園寺は、宮中を手下で固めた山縣のやり方を取りやめ、自律した勢力としての宮中を確立させようとした。牧野伸顕は1921年から宮内大臣、1924年から内大臣に就任、宮内大臣には一木喜徳郎、侍従長には鈴木貫太郎がついた。

 ――「牧野グループ」ともいえる側近メンバーは、一定の政治思想や輔弼理念を共有していた。それは、列強との協調外交の維持という穏健な政治外交思想に基づいて天皇を輔導し、その天皇から発せられる政治意思を政局に反映させようとする輔弼理念であった。

 1926年に昭和天皇が即位した。天皇は政治に関与する方針を示しており、張作霖爆殺事件の首謀者を処分しない田中義一首相を叱責し、辞職させた。

 独立勢力としての宮中の問題点……元老がいなくなると、軍部を抑制する者がいなくなり対立を深めていった。

 

 3

 1931年の満州事変、続く上海事変熱河省侵攻作戦等、中国戦線は拡大を続けた。牧野らは天皇に直接裁可を求める御前会議を開こうとしたが、西園寺は天皇の責任問題に関わるためこれを却下した。

 宮中は「君側の奸」として軍から目をつけられるとともに、木戸幸一や熊田忠雄ら、政治姿勢の異なる若手官僚が台頭しつつあった。

 五・一五事件(1932)や二・二六事件(1936)を経て軍部は発言力を強め、大陸での外交政策は完全に軍に掌握された。

 

 4

 天皇は軍部の独断専行に強く不満を持っていたが、西園寺は天皇が直接政治に関わるのを最後まで避けた。その理由は、天皇の意図が無視され権威が失墜する、天皇政治責任が及ぶのを避けるためである。

 宮中では、軍部や民間右翼に同調する若手の木戸幸一らが実権を握りつつあった。木戸が内大臣に就くと、かれは西園寺ら元老を権力から切り離した。

 

 5

 1941年には関特演に対抗しアメリカが石油全面禁輸、対日資産凍結を行う。9月6日の御前会議では、日本は対米開戦をするかしないかの決断にまで(自らを)追い詰めていた。

 木戸幸一天皇と政府の触媒としての務めを果たすとの意思により、天皇とともに東条内閣を支持する。しかし、戦況が悪化すると倒閣運動の裏で暗躍する。

 ――天皇は、軍部と同様、連合軍から戦果をあげ、日本に有利な戦況を整えたうえでの和平交渉という筋道に期待し、近衛の提案(早期講和)を取り上げようとしなかった。

 その後の国家首脳の動き……

・沖縄陥落後、戦争指導部は本土決戦を主張し、また思想の引き締めを提言していた。

ポツダム宣言を受諾するか黙殺するかでの論争。

・国体護持だけを条件とするか、その他の条件も加えるかの論争。

 天皇の聖断による終戦は、木戸によって円滑に実行されたと本書は主張する。

 

 6

 軍部が消滅した後の最大の問題は「国体の護持」、すなわち天皇制を存続させてもらえるかどうかだった。

 東久邇宮内閣の「一億総懺悔論」とは、「戦争責任を政官財、軍、国民で負担しつつ、天皇立憲君主としての姿勢や平和主義者の側面を強調することで、天皇への戦争責任の波及を防ごうと」する画策をいう。

 天皇免責のために木戸、天皇らは寺崎英成を登用し、自らの平和主義者としてのアリバイ工作である「昭和天皇独白録」を作らせた。また、新憲法についても天皇側は立憲君主制を求めたが、GHQの意向により儀礼的なもの(象徴天皇制)にとどまった。

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 木戸は戦犯として投獄されるが、かれは天皇の道義的な責任を認め、いずれ退位すべきと考えていたという。天皇自身は側近の意見を受け入れ退位を否定した。

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 ポツダム宣言

 1条件派……国体の護持

 4条件派……国体の護持、占領不可、自主武装解除、自国による戦争責任者の処罰 

宮中からみる日本近代史 (ちくま新書)

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