うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『自由と社会的抑圧』シモーヌ・ヴェイユ

 フランスの哲学者の本だが、内容が難しかったので漫然としたメモになった。

 マルクス主義を批判し、人間の歴史が常に抑圧とともにあった事実を検討する。人間を、自然や社会形態、権力から解放するためには、個人の自由な思考が重要である、と考えているようだ。


 ◆マルクス主義の批判
 労働者が搾取されるのは、資本家同士がつねに抗争をしているからであるとマルクスは言った。

「よってこの地表に権力闘争が存在するかぎり、そして勝利の決定要因が工業生産であるかぎり、労働者は搾取されつづける」

 大工業の特質とは知的労働と肉体労働の分離であり、専門家を基盤にするわれわれの文化の特徴である。国家による管理機構の基盤でもあるこの分離は、社会主義運動にも忠実に投影され、一部の「知識人」の占有するところとなった。

「われわれの文明のいっさいは専門化を基盤とし、専門化は調整者にたいする遂行者の隷属を含意する」

 

 ヘーゲルが世界を調和に導く精神の存在を、資本主義が進歩を信奉したとすれば、マルクスは生産力の無限の増大を信奉したのだった。マルクスの生産力信仰は宗教に似ているという。

「人間の意志と、世界内で作用して人間を勝利へと導くとおぼしき神秘的な意志とが、奇しくも合致するという信念、それは宗教的な思考であり、神慮への信仰にほかならない」

 

 マルクスの『資本論』はそもそも共産主義の教義集ではなく、経済分析のひとつにすぎない。ヴェイユは、マルクスを教義にしてしまったものへの批判を展開する。

 前述の分業形態はマルクス曰く「死せる労働による生ける労働の代替」という。

「労働がいつの日か不要になるという愚かしい概念を生じさせたのは、もっぱら技術的進歩の迅速さが招いた陶酔である」

 いかなるユートピアも存在しない。ユートピアの名のもとに殺人はおこなわれる。皮肉な歴史とヴェイユが言うもの、「労働者階級は、労働者革命以外のものに奉仕するときにのみ、おのれの力を発揮してきたといえよう」。

 ヴェイユによれば革命とは実体を欠く語である。

 ――社会的抑圧の廃絶……この観念がなんらかの意義を有するには、社会が個人に加える抑圧と、個人的恣意を社会秩序に服させることを、心して区別せねばならない。

 すくなくとも人間の精神と肉体を抑圧の重みで粉砕せずに強制が行使されうる生産組織を、構想しうるか否かを知ることだ。

 

 この、抑圧をできるかぎり軽減させた生産様式が見つからぬとしても、「すくなくとも合理的に抑圧を甘受することができ、たとえ抑圧を妨げる有効な手を尽くせずとも、おのれを抑圧の共犯者とみなさずにすむのである」。

 ◆抑圧の分析

 抑圧への抵抗はあらたな抑圧を導入してきた。マルクスは抑圧を、社会的機能をはたすための道具とした。社会的機能とは生産力発展である。ヴェイユ曰く「マルクスは、資本主義体制がいかにして生産を阻害するにいたるかを証明してみたと信じたにせよ、今日、他の抑圧体制もまたひとしく生産を阻害するか否かについては、論証の労さえとらなかった」。

 

 抑圧はすべての形態についてまわる。

 原始経済において抑圧者は過酷な自然である。自然が神格化されるのはそのためもあるという。

「総体的にみれば人間の行動は、直接的必然が容赦なくつきつける刺戟への純然たる服従でありつづける。自然の呵責をまぬかれる代償として、同胞である人間に苛まれるにすぎない」

「抑圧を行使するのは力であり、究極において力は例外なく自然のうちにその源泉を有するのである」

 だが、ヴェイユは「力の観念は単純からほど遠い」という。

「力と抑圧、これは別物である……ある力が抑圧的であるか否かは、力が行使される方法ではなく、力の本質そのものにより決定されるということだ」

 マルクスは国家に本来的に備わる人間粉砕機の機能を看破した。

 抑圧の条件について。まず、事物の本質に基づく特権の存在だが、これはいわゆる権力者のことだろう。自然との和解は科学者と技術者の占有となり、武装は軍隊の占有となり、貨幣は専門家の占有となる。

「その結果、ものごとを遂行するさいの第一の掟は服従となる。企業の管理でも公務の管理でも、事情は変わらない」

 ここにさらに加わるのが、「権勢のための闘争である」。

「権勢の保持は、権勢を享受する人びとにとって、生命にかかわる必然である」

 「自身が支配する人びとにたいする闘争と自身の競合者にたいする闘争」は、互いの火種に油をそそぎあう。さらに「奴隷たちは奴隷たちで、主人の闘争の結末に自分の命運が絡んでいるという幻想をいだく」。

 ――ある社会的集団が併呑をもくろむ外的権勢に逆らって自衛しうるには、みずからが抑圧的な権勢に服していなければならず、かくて確立した権力が居座りつづけるためには、競合する権力との紛争をたえず煽り立てねばならぬからだ。そして、ふたたび連鎖はつづく。

 これを解決するのは不平等の撤廃か、安定した権力の確立、のどちらかである。

「権力の安定こそが、現実主義者を自称する人びとの目標であるが、これを仔細に検討するならば、無政府主義者の理想郷とおなじく蜃気楼であることがわかる」

 

「武器にせよ、機械装置にせよ、呪術的または技術的な秘訣にせよ、権力の手段はつねに権力をあやつる人間の外部に存在し、他の人間によって奪われうる。かくてあらゆる権力は安定を欠く」

「権力なるものは存在せず、ただ権力への奔走だけが存在する」

 ――『イリアス』の真の主題、それは戦争による戦士の掌握であり、戦士という媒介をもちいた戦争による万人の掌握である。……戦士をふたたび戦場へと追いやる不可解な影響力は、神々に帰せられるのである。

 

「かくて、はやくも古代の賛嘆すべき詩篇のうちに、人類の本質的な悪、すなわち手段による目的の代置が出現する」

「よりよく生きる手段にすぎぬ事物のために、各人が自身と他者の生命を犠牲にすること、これこそが社会的な存在を支配する全活動をつらぬく法則なのである」

「権力は定義からして手段しか構成しない」

 追求がいっさいの目的に代わる。歴史上の流血はすべてこの逆転、つまり狂気のなすものである。隷従の歴史。「自身が作り上げた支配の手段に翻弄される玩具」となる。

 抑圧の当事者は権力を神秘的なものと考える。「あらゆる抑圧的な社会は権力というこの宗教で強化されている」。
「あらゆる権力は、まさにそれが行使されるという事実ゆえに、権力が依拠する社会的な関係を可能なかぎり拡張する」

 革命、つまり「力にたいする弱さの勝利」はありえない。

「歴史がわれわれに呈示するものは、体制の遅々たる変容である」

 ここでは生きることそのものにつきまとう抑圧がいかに自然から人間へと転移してきたかが書かれる。

 ――自然の法外な力が脆弱な人類に与えてきた重圧から集団としての人間はかなりの程度まで解放されたにもかかわらず、逆に集団はまるで自然を継承するがごとく、自然に類するやり口で個々の人間を粉砕するにいたったのである。

 抑圧は自然から社会へと原因を変えた。集団は自然を克服したが「集団を構成する個としての人間は、抑圧者も被抑圧者もひとしく、権力への闘争のための仮借なき要請に服すのである」。

 のちに書かれるがヴェイユは権力者、権勢もまた抑圧の支配下にあると考える。強者も弱者もひとしく抑圧の対象となっているのだという。抑圧は宗教的感情をもって、畏敬をもってとらえられる。

 進んだ文明における労働は、「不毛などころか、原始の人間の努力よりも無限に生産的である。外的自然を人間の生活に有利な方向へと軌道修正する効力を有するからだ」。だがそれは間接的で、一望することができない。「逆に、これらの労働に付随する精根つきはてさせる疲弊、もろもろの苦痛や危険は、無媒介的かつ恒常的に感じられる」。

「はるか将来の利便性についての抽象的な観念が、眼前の苦痛や必要や願望に勝利するのは稀である」。

 それでも従属しなければ、生きていくことはできない。

 ――集団的魂や集団的思想といった語は、今日いかに頻々と使われていようとも、いっさいの内実を欠く。複数の人間の努力がむすびつくには、「千の腕にひとつの精神でたりる」という『ファウスト』の有名な詩句があらわすように、ただひとつの精神による導きが必要である。

 
 ◆自由な社会の理論的展望

 自由たるべく生まれたと感じることをなにものも否定できないのだとヴェイユは書く。

 ヴェイユはルソーのいう「黄金時代」を批判する。黄金時代のいう自由とは「自身の気まぐれへの無条件服従にほかならない」。それは「全面的な情念の支配」である。

 「真の自由を規定するのは、願望と充足の関係ではなく、思考と行為の関係である」。

 この自由に関しては、「成功で飾られるか否か」、苦痛と失敗をなめるかは問題ではない。「行為の機能をみずから掌握している行為者」であることが大切なのである。

 人間は生活するうえで「必然が押し付けてくる外的刺戟に手もなく屈するか、みずから練り上げた必然の内的表象に自身を適合させるか」どちらかを選ばねばならない。

 ミラー『わが読書』のことばなら「少年の選択――軍隊へ入るか、浮浪人の仲間入りをするかどちらかだ」。

 

 欲望も人を従属させる。「あらゆる仕草が自身の思考以外を源泉とする場合、その人間は完全な奴隷である」。近代労働者は「みじめな極限状況」に近い。

 情念からも支配されず、意識的かつ方法的な努力の組み合わせを行う。

 「節制と勇気」こそ最良の徳である。

 ――自己以外のなにものからの支援もまったく期待せず、生を自己による自己のたえざる創造とすべく、人間をむき出しの必然に直接対峙させる運命、人間にとってこれ以上に偉大な運命を構想することはできない。

 これらは理念(イデー)であり、現実にこんなことはおこらないという。

 成功か失敗かが重要ではなく、「行動を思考の指揮下におくこと」こそが不可欠である。計画、判断、思考も自然の偶然の前ではすぐ崩れてしまう。

 

「人間が自己以外から奇蹟を期待すべきではない世界に生きていること」を知れ。

 

 道具が進化するにつれて、「人間という有機体の動作を手段/道具の形態にあわせることを強い」られるようになった。ここからは道具と人の関係について。道具は「生身の欲望と恐怖」から離れ、道具の目的を遂行するために生きるようになる。

 道具の利点とはなにか。「人間の肉体を、思考と手段をつなぐ恭順な媒介の役割にまで、切り詰めることができる」点である。これが技術の貢献である。

 だが問題が生まれる。「労働の動作のなかには方法があるが、労働者の思考のなかには方法がない」。

 「人間のみが人間をよく隷従せしめる」

 原始の人びとはわざわざ自然を擬人化したのだった。

 ――奴隷たちはといえば、恒常的に物質と格闘している。ただし、かれらの運命が依存するのは自身があつかう物質ではなく、いかなる法則も限界を設けえない主人の気まぐれである。

 集団についてのヴェイユの見解。集団とはもっともとらえにくいものである。集団は宇宙と人間とのあいだに「恣意」、気まぐれを張り巡らす。

「大海に呑まれる一滴の水とおなじく受動的に社会にひきわたされるのをやめるには、人間のほうで社会を熟知し、社会に影響をおよぼす必要がある」

 無限に凌駕する集団の力が唯一かなわないもの、それは個人の「思考の領域」である。

「思考能力を例外として、人間には本質的に個に属するものはなく、絶対的に固有なものもないといえよう」

 

 

 著者の予想する理想社会は、やはり気色が悪いくらい健全なものだ。当時の船乗りの仕事は、「自由な人間の労働にかなりよく似ている」。一方、現代の工場労働者はほぼ完璧な労働者である。

 思考が社会的生に介入することが、自由につながる。「自己の社会的機能をはたすときに思考することを義務付けられている人びと」となること。

 職能をもつ者はもたない者を制御する。これが技術者と一般民の関係である。

「これらの職能が(帯びていないものからの)制御をまぬかれる度合が高くなるにつれ、集団的生は個人からなる総体にいよいよ重くのしかかる」。

 ――もっとも弊害の少ない社会とは、一般の人びとが行動するさいにあたってもっとも頻繁に思考する義務を負い、集団的生の総体にたいして最大限の防御の可能性を有し、最大限の独立を保持するような社会である。

 

 ◆現代社会の素描

 著者いわく、われわれの時代は理想とは程遠い。

「人間たちが部品の役を務め、規則や関係や統計が歯車装置を構成するこの機械仕掛けは、みずからを官僚組織と称する」

 あらゆる思考は、「これら巨大なメカニズム内部での結晶化という条件をみたしてはじめて、社会的な価値と有効性を獲得する」。手段と目的の転倒が遍在する。

「機械は人間を生かすために機能するのではない。機械に奉仕させるためにやむなく人間を養うにすぎない」

「人間がここまで隷従させられてしまうと、いかなる領域においても価値判断は純然たる外的基準に依拠するほかない」。

 あらゆる思考と行動は(あえてその基準を名づけるとすれば)<有効性>によって判断される。

 価値判断は事物にゆだねられ、「成功が人間活動の全分野における唯一の尺度」となる。

 そのほか、当時の経済状況の殺伐とした光景について。また、国家が闘争単位である以上、最終的に社会の主軸は戦争準備になるということ。

 

 戦間期の国家は、「社会主義全体主義体制」を目指していた。

 ――すなわち、あらゆる領域において、また思考の領域においてすら、あるいは思考の領域においてこそ、国家権力が主権者としての決定をおこなう体制である。

 

 「そもそも隷従が自由な人間を作るなどとマルクスはなぜ信じえたのか、と問わざるをえない」。真実は「隷従は当人にこれを愛させるまでに人間の品性を損なう」。社会は「政体に従属するすべての人間をおのれの似姿とすべく造形する」。

 

 賃金は施しに近い意味を与えられる。失業者も寄生者にはちがいない。金銭は恩恵にみえてくるものだ。

 ――権勢は自分の近づけないどこかの階層に神秘的に存在するのだ、とだれもが信じている。権勢がどこにも存在しないということを理解しないがゆえに。

 ファシズムが思考を制御できるのはそこに自由な思考がないからだ。暗愚は増長される。愚民化政策は豊富にあるが、明晰な思考を普及させる手段は皆無だ。

 「強力な手段は抑圧的で、穏便な手段は効果がない」

 あらゆる改革組織は、旧弊を複製する。「官僚組織、手段と目的の関係性の転倒、個とみなされる人間の軽視、思考と行為の分離、思考の機械的特性、愚昧化と虚偽にもとづく宣伝手段、その他」がそうである。

 「結」から……「われわれは現今の諸悪にたいして完膚なきまでに無力である」。

 文明の未来を残す仕事ははてしないものだが、こういう道を歩むものは「まちがいなく精神的孤独と周囲の無理解を覚悟せねばならず、確実に既存秩序の敵対者からも奉仕者からも敵意を招くだろう」。

 
 スピノザの冒頭の言葉――人間にかかわる事象においては、笑わず、泣かず、憤らず、ただ理解せよ。

自由と社会的抑圧 (岩波文庫)

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