うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『夜の言葉』ル=グウィン

 『ゲド戦記』の作者グウィンの創作論。伝統的に子供向けの幼稚なジャンルとされてきたSFやファンタジーの価値を検討する。

 

 グウィンが作風を確立するためには、SFというジャンルのなかでの試行錯誤が必要だった。

 一定のジャンルに沿って書けばそれだけで読まれるから、自分で批評するしかなくなる。だが売るためには一定の枠に収めなければならない。

 

 イギリスでは、アメリカよりも小説の対象年齢区分があいまいである。『ゲド戦記』の感想は、イギリスでは大人からのものが多い。

「要するに、イギリス人の読者は、自らが大人であることを弁明する必要がないほど成熟した大人なのである」

 

 文体に必然性がなければ、ファンタジーである必然性もない。情熱、実人生に濁されぬ理想の世界をグウィンは志す。英雄を笑うのは自然主義がやることであって、ファンタジーは存在しない真の英雄を書くべきだ。

「芸術においては″充分に良い″ではまだ不充分なのです」

 

 

 平明・簡潔な文体は偉大である。文体から作品がつくられる。なぜファンタジーにおいて文体はそれほど重要なのか。それは作家の作り出す言葉のほかに根拠がないからだ。作家のヴィジョンが想像世界のすべての源である。

 先進国には総じて反ファンタジー、反フィクションの傾向がある。こうした傾向は特に30代の賃金労働者の間で顕著である。その理由を彼女はアメリカ人気質――「ピューリタニズム、勤労精神、功利的傾向」に見出す。読書は仕事ではない。それは、楽しみにすぎず、自己陶酔か逃避でしかない。楽しみは罪だ。

 

 男性は女性的要素であるイマジネーションも嫌う。自由なあそび、フリー・プレイとは、「目先の実益に執着しない自発的な行為であることを指す」。抑えつけられた想像力は、養分をもとめてどんな貧弱なものにも飛びついてしまう。

 ファンタジーとお金は反比例する。とグウィンは書く。芸術とお金は反比例する。成熟とは子供が死んで大人になることではなく、子供が生き延びて大人になることだ。

「彼らは、ファンタジーの内なる真実が、彼らが自らを鞭打って日々生きている人生の、すべてのまやかし、偽り、無駄な些事のことごとくに挑戦し、これをおびやかしてくることを知っているのです。大人たちは竜がこわい。なぜなら、自由がこわいからです」

 

 ファンタジーは夢や無意識をテーマにする。アンデルセンの物語は「夜の言葉」である。

 神話は科学が達していない分野における空想にすぎない、と言われる。しかし「科学それ自体はこうしたもの(神話や神)と関係があるとはけっして主張しないのであって、科学万能主義だけがこの主張をしたのです」。

 

 ――小説の一ページ一ページに象徴が、まるでおびえたあれちねずみのようにひそんでいるのを見ぬくことができなければ、文学に関してはまるで才能なしと見なされるわけです……これはなにを意味するのだろうか。あれはなにを象徴しているか。底流となっている神話はなんなのか。学生達はこのような授業から、あれちねずみでいっぱいの脳みそをかかえてよろよろと出てきます。そして机にむかい、気どっているだけでおよそ内容のないものを書き散らすわけです。メルヴィルもこういうふうに作品を書いたのだと思いこんで。

 象徴とは言葉にできないものをあらわしているから象徴になる。著者はあざとい創作技術を否定する。

「ほら、みんな! 象徴でお手玉やってるんだぞ。おれたち知識階級はね、こういう元型みたいな手あいを扱うこつを心得てるわけさ」

 感情を盛り上げるため、オカルト・ブームに乗るように神話を用いるものと、クラークのように「復活というものを自分独自の生きた象徴で表そうと苦闘している」ものの作品との間には、大きな隔たりがある。

 すぐに言葉で説明できたり、なにかの寓意であるとわかるような神話は贋物である。知識をこねくりまわしたものに意味はない。

 

 

 ――最近のアメリカSFには、全体主義国粋主義、人口過剰、環境汚染、偏見、人種差別、性差別、軍国主義、などなどに取り組んでいる作品が満ちみちています。どれも〝現実に深くかかわっている〟問題です……しかし、気になるのは、かくも多くのそうした短編や長編が粗暴なまでに激しい独善的な調子で書かれていること――答えはある、簡明な答えが、どうして外にいるお前たち愚か者どもにはそれが見えないんだ――そういった意味合いの口調で書かれていることです。

 

 彼女はこういう作風を逃避主義と呼ぶ。問題提起してそのまま解決や対処せずに逃走するからだ。ニヒリズムはもっとも安易な解答だ。

「SFが、屑として、あるいは逃避志向をもたらすものとしてではなく、知的に、美学的に、倫理的に充分な責任能力をもつ芸術として、偉大な芸術様式として扱われるようになれば、SFはおのずとそうした姿を現出させ、自らの可能性を実現させることになるでしょう」

 SFでは民衆は人であって人でない。単なる群集で、存在理由は上の者に統率されるためにある。

「あなたはそのひとたちを力関係によってしかつながりをもちえない〝物〟にしてしまった、そしてその結果、あなたが致命的に貧しいものにしてしまったのはあなた自身の現実です」

 

 すべての芸術はエンターテインメントでもある。どの国も、その国にふさわしい芸術をもつ。ロシア人は芸術というものを信じている。だからトルストイザミャーチンソルジェニーツィンが生まれ、政府はそれらを検閲するのだ。

「疑問を抱くこともなく、自分の住む社会の価値観を受け入れた。そして、無批判に受け入れることの代価は、沈黙である」

 気づかずに自己検閲を行うことは、「市場向けに書くこと」とよばれている。

「芸術における明快さは、目標にふさわしい手段によって成し遂げられるのであって、その目標は、きわめて微妙、複雑、あいまいかもしれない。こうした手段を巧みに用いることこそ、芸術家の腕の見せどころなのである」。

 敗北や死や絶望を無視した空疎な楽天主義とおなじように、考えることをやめて幻滅にすべてをゆだねた「暗い未来の話」も、知性とは程遠いとル=グウィンは述べる。ニヒリズムは思考放棄である。芸術はhowとwhatを問うだけでなく、whyを投げかけるときに、倫理的選択と知性をもつ。

「真に生きてあるものは、何物の前でも立ち止まることなく、ばかげた子供っぽい質問に対しても、絶えることなく解答を見つけようとする。……もし答えが達成不可能というのなら、なおのことよい! 答えのすでにある質問とかかわりをもつのは、いったん胃に入れたものをあらためて消化する牛の胃袋のように作られた頭脳をもつ人の特権にすぎない」

「最終的なものなどどこにも存在しないのだ」


 アンガス・ウィルソンの引用

 ――小説とは、じつのところ、こうした瞬間的な心像そのものなのだ。どれほどそれに教訓的、社会学的、心理学的、技術的な調琢をほどこそうとも、作者自身にとってのその重要性を変えることはできぬ。……だれもが決まり文句として、小説は隠喩の延長であると言うが、しかし隠喩こそはすべてであり、その延長はたんなる表現手段にすぎぬと主張するものは、おそらく、ほとんどいないだろう。

夜の言葉―ファンタジー・SF論 (岩波現代文庫)

夜の言葉―ファンタジー・SF論 (岩波現代文庫)