うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ジョイスとケルト世界』鶴岡真弓

 アイルランドアイリッシュケルトはヨーロッパの周縁を前線に逆転させ、珍しいことばや形象をうみだした。

 全米で三月に行われる聖パトリック祭はもともとアイルランド移民のイベントだった。三つ葉のクローバーは「シャムロック」、緑色。

 一八四〇年の大飢饉で溢れたアイルランド移民は「学歴がなく、腕っ節ばかりが強いから、就ける職業といえば建築労働者か警官が通り相場だった」。大飢饉アイルランドの人口は半減したのだった。「金ぴかのダヴィデの十字架をひっさげて、恐ろしいまでの選民の天才を地球上に振り撒きつつ際立とうとする」ユダヤ人とは異なり、彼らは放浪(エグザイル)の使命を受け入れる。流浪の民、駄弁と警句。

 日本に駐在するアイルランド人は言う。

アイルランド人というのは、何といいますか、こう真面目ないい話ばかりしておりますとだんだん妙に気恥ずかしい気持ちになってきまして、最後はジョークでひっくり返すっていう悲しい習性があるんです」。

 話が直線的に収まるとつまらない、否(ノン)、否、とどんどんひっくり返し、こんがらがっていくこと。

 ラフカディオ・ハーンはギリシア系のアイルランド人だった。エグザイルとは「追放」の意味もある。彼は幽霊作家である前に漂白の人間だった。彼は祖国と絶縁するためにパトリックという名を捨てたのだった。

 ――漂白の旅といっても、何か利益を得ようとして駆り立てられるのではなく、楽しみのために旅に出るのでもない。私はたんに彼の存在上さし迫った必要に駆られる文明人の漂白の人のことを言っているのだ。そういう人のひそかに秘めた本性は、偶然とはいえ彼が属している社会の安定条件とまったく矛盾している。たとえどんなに知的訓練を受けようとも、彼は不合理な、妙な衝動の奴隷であり……。

 妙な衝動の奴隷であること、旅人にしか幽霊の存在はわからないのだという。ハーンはその衝動の源を「先祖伝来の気質」だとする。

 

 ジョイスについて。『若き芸術家の肖像』に書かれた主人公スティーヴンのことば、「自分がもう信じていないものに、ぼくは仕えたくない。たとえそれがぼくの家庭、ぼくの祖国、ぼくの教会と呼ばれるものであっても。そしてできるだけ自由に、できるだけ完璧に、何らかの生き方と芸術のなかで自分を表現してみたいのだ」。

 鶴岡曰くジョイスは「「沈黙と追放と狡智(cunning)によって」……言葉の芸術で現実と対決することを宣言した」。

 ダブリンという極小のことがら、内側に向かって極大に変貌させていくこと。ジョイスが作家志望に語ったことば、「君はアイルランド人なのだから、君自身の伝統に従って物を書かなくてはなりません。……頭の中にあるものではなくて、君の血の中にあるものを書くべきなのです」。

「偉大な作家というものはまず第一にして民族的なのです。民族性が強烈であってはじめて、その結果、国際的になる……私自身はといえば、書くものはいつもダブリンにつちえなのです……個別のなかにこそ普遍が含まれているのです」。

 アイルランドカトリック、聖パトリックの緑党と、オレンジ公系譜プロテスタントのオレンジ集団。オレンジと赤(イングランド、聖ジョージ)が手を組む。

 彼はイギリスによる支配、カトリックによる支配、そして文芸復興運動に批判的だった。「失った過去を自己憐憫の美しい幻想で固めて、「憂鬱の気分を湛えた、特異な叙情性」に浸り、ひたすら「過去へのロマンティックな回帰」を求めるのでは」ない方法を探索していた。

 その手法に反して彼の祖国にかんしての知識量は驚くべきものだ。彼は『ユリシーズ』などでとてつもない「列挙」を行う。

 『装飾的思考』と同様、ジョイスの著作の根幹をなす『ケルズの書』が言及される。

 ジョイスはこの本を放浪のあいだに持ち歩いた、彼にとってこの書は「純粋なアイルランドそのもの」だった。彼の「原・書物イメージ」はこの本だった。このようなものを書きたい、と彼は編集者に言った。キリストの名前XPIからフィネガンズ・ウェイクの主人公LHCとALPが生まれたのだった。

 

 エーコの展開した「西方の詩学」という考え。ローマの古典主義に対し西方の野蛮人たちは奔放な、バロックに通じる言葉遊びを行った。縦読みはこのころからあったのだという。ことばの似ているものは存在も似ているという語源学。ジョイスや西方の古代人にとっては語呂合わせが形而上的思考のきっかけとなっている。

「この文様は逃走している。僕の言葉も逃走している。なぜこんなにもアイリッシュは、形象に言葉に過剰な負の増殖を夢見るのか。このケルト・スパイラルは何に由来するのだろう。ヨーロッパから西の端まで漂白し、なぜまたもっと西方へ! と考えるのだろう。なぜピリオドを打つ勇気をもちえないのだろう。なぜ完結するのを恐れるのだろう。なぜ否(ノン)を永遠に……」。

 

 ケルトの西の島々は「死者たちの島」だとされる。