うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『時間』吉田健一

 時間の観念についての本。吉田健一の本のなかでも特に文体の特徴が強く出ている。

 

 ――併し一秒前の針の位置が三秒前、四秒前のことになってその四秒前が過去であると考えるのは物理的な所謂、時間が頭にあってのことでそれならば過去、現在の区別も全く物理的なものになり、その拘束を離れるならば水車はいつまでも、或は今が今である意識が続いている限り同じ眺めの中で廻っている。その上の空では鳥が舞っているかも知れなくてその鳥は空の或る位置にいたのだが次の瞬間には別な所に移っているのでなくて空に舞っているのである。それは水が流れているのと変わることはない。

「まだ時計のようなものがなかった頃の方が時間の観念は正確だったかも知れない」。

「或は時間が人間を老いさせるのでなくてその老いる人間も老いた人間も時間なのである」

 時計の動作によって測られる時間と吉田の言及する時間は、互いに異質のものである。前者は死んだ時間であって散々言い尽くされている。後者は人間と時間が一体化したときにあらわれるものである。また現在とは時間が経っていると感じることであって過去現在未来の三つの分割はそのとき幻想になると彼はいう。

 詩はひとつの現在だから長短はない。時計の時間と時間は違う。

 「記憶は意識の働きの一つである」が、プルーストベケット以来記憶には丸暗記式に過去を覚えることとは別にもうひとつの記憶があることがあきらかになった。『失われたときをもとめて』の主人公は時間であって、彼によれば時間とはそこにいることを彼に認めさせるものである。

「我々にとって過去は存在するかしないかの何れかであって我々が過去にいない時に過去はない」

 過去が意識にのぼったときに過去がある、現在か現在でないか、時間とはそれだけである。

「我々の現在は無数の過去で出来ていてそれが無数であるのは我々を、従って我々の意識をなしているものの大部分が我々以前のものだからである」。

 世界というものには通常歴史とよびならわされる部分も含まれる。詩文というものは過去を蘇らせる。空はただの空ではなく世界である。見るとか聞くとかは意識とともにおこなわれたときに見聞きするのである。

 ――ワイルドがビアズレイの絵を評して今自分は頽廃期のロオマにいると言ったのはそのことを指している。或る時代を選んでそこで時間が再び流れ始めるのでなければその時代はないのでその逆にそこで時間が刻々にたって行くのを自分の息遣いとともに感じる時に我々はそこにいる。それには学識も不可欠の条件でなくて……

「神話は今日では先ず嘘の同義語と見られているようであるが嘘をつくのが目的で人間が神話を作ったのでないことをここまで来て改めて考える必要がある」。

「事件と普通呼ばれているものはなくて事件というのは時間を一足飛びにたたせて実際に起こったことのあらすじに与えられる名称である」

 

 時計もまた時間に従って動いているだけである。時計の支配から離れること。時間とともに生きるのをやめて、時間を見なくなったときに代わりにあらわれるのが空間についての妄想である。

「今日の人間の一部は旅行する代わりに観光ということをする。先ず地名に就いての妄想があってそれが花のパリであり、グアムの海が青いことはこれも眼で見れば解る。それだから素晴らしいのだろうか。併しグアムの海にも時間はあってその海も時間なのでこのことを見逃して海が青いのは青いペンキと変わることはない」。

 吉田曰くいまの日本には騒音が多く時間とともに生きることを妨げる。

「世の中を煩く思うというのが我が国では今日に始まったことでないということである」

 文明開化以来「世の中を煩く思うこと自体が少なくとも表向きは許容されなくなった」。

 精神は拘束なく時間を自由に経過する。

「併しそうして知るその他の行動をする自由が精神にあるのも時間があってのことで時間がどのようなものにも拘束されずに自らを律しているその状態に自由の規範が見られる。その外に自由はない」

 

 精神が精神に就いてのことを認めるとき精神は変容する。

「我々の世界をなしているものの大半が精神に属することなのであり、そのことを認めるのを邪魔しているのが石ならば石に生命はなくてそれが具体的に石であることも一時的な見せ掛けのものなのである」

 精神の世界が全否定されているのではなく、たとえば文学芸術はその領域であるとされる。ところが「これが人文科学ということで総括されることで話がぶち壊しになっている」。科学で扱える精神とは病理学のような治療を要する精神異常を指すことになる。

 

 現実は物質ではない。西欧における無と仏教的な無は違う。仏教では無とは無限に近いものであって、充溢したものとされているが、西欧ではまさになにもない状態、おぞましい状態であるとされる。神は真空を嫌うという考え。時間が世界を含んでいるのだから時間が止まるということはこのおぞましい無の状態であるということだ。

 この無から逃げるために時を超えた存在、不滅の霊魂の観念が生まれたのだった。時は西欧では破壊者である。砂時計と鎌をもった老人。

 時間はあらゆるものを通して流れているものだから比較対象はない、だから時間が早いとか遅いとかいう観念はない。時間が空間をつくるがまた精神があるから時間を意識するのである。名づけられた言葉を用いることで我々はその存在を意識するからそうやって思考するとき時間が生まれる。

 

 時間を意識することが世界の認識のはじまりである。言葉も時間から生まれてそれにその言葉のかたちを与える。

「それ故に詩には韻律がある……その文章に我々が接している間はそれをしている我々の時間を決定することになる」。

 プルウストの時間についての考え。人間は思い出すとき五官を頼りに思い出し、それは思い出したとき記憶となる。世界は五官では感じ取れないものによって成り立っている。人間同士の関係に触ることはできない。だが人間の強弱というのは五官を通してわかるのではないだろうか。時間が過ぎるのが苦痛であるのはまさに時間というものの性質を感じているからである。

 自分にしろ物質にしろ真実にしろなにかを固定したものとおもうのは錯覚である。時間は間断のない変化でありよって不変である。

「この現在の移動、或は設定が言葉で行われることが多いのは我々を再び意識、時間、世界の問題に連れ戻して意識が時間を映すものならば言葉は意識の反響であることで生きて言葉も時間から切り離せない」。

 「そこにいなければ我々には何もない。もしいればそこにあるものが我々にもある。それが認識の根本」である。ただ遺跡として観光するなら我々は今日にいて、「メムノン像が朝日に向かって歌うのを聞くならばエジプトの古代が我々がいる現在である」。

 我々の一生は現在の連続あるいは断続であって現在はひとつである。世界は幾何学を越えていて、線的なものではない。世界は時間の経過とともに豊かになっていくと彼は書く。時を通して残るものは、物質、五官で感じられるものだけでは決してない。絵は物質であるといったら美術館にあるものはどれも同じである。

「それがそこにあることを我々が認めるにはその出来事が精神の領域での出来事でなければならなくてその出来事が物質の領域に残した跡は消滅しても精神の領域では時間は過去になることがない」。

 ※ 今日ならば神話は作ることが出来てそれが作りものであることが直ぐに見破られる。それはそこに時間が流れていないからでありもしないことをありもしない風に仕立てるのは容易である。

時間 (講談社文芸文庫)

時間 (講談社文芸文庫)