この本は具体的な紛争地域の解説からなる。ウクライナ、トルコ等、近年情勢の悪化した地域も取り上げられている。
民族ナショナリズムは旧共産圏、民主主義国の双方で発生している。
ナショナリズムが殺人を命じるとき、それは民の「善の心」に訴える。そして最大の善は愛国心である。
「ナショナリストはあきれるほどに感傷的だ。キッチュ――低俗多情――これが民族浄化を唱える者の美意識だ」。
著者は暴力に行きつく民族ナショナリズムを否定し、強制力をもった国家による公平な統治、「国民、市民」としてのナショナリズムに賛成する。
ユーゴスラヴィアはチトーの強権により統一と安定を維持していた。ソ連崩壊後、実際はほとんどわからない民族の違い(微差のナルシシズム)を強調するためにさまざまな偏見がつくりあげられた。クロアチアはカトリック、セルビアは東方正教だったが、都市化と工業化により生活の違いはほぼなくなっていた。民族たちは、それがでっちあげであることがわかっていた。クロアチア人みながウスタシャ(極右集団)ではなく、セルビア人みながチェトニクではないのだ。
残虐で狂信的な民族主義者のバルカンというイメージがあるが、それをもたらしたのは西欧流のナショナリズム(国民国家)と、西欧諸国へのあこがれである。
チトー死後、ユーゴスラヴィアの解体の危機に際し、国民の恐怖が彼らを衝動へと駆り立てた。また、共産エリートも生き残りをかけて民族主義を煽った。
「民族間の憎しみは、合法権力の崩壊が生む恐怖の結果なのである」。
――歴史的には、ナショナリズムと民主主義はつねに足並みを揃えてきた。そもそもナショナリズムとは、人民はみずからを治める権利を有し、主権は人民にのみ存するという理念である。
セルビアのミロシェヴィッチは、大セルビア主義に基づき、領土拡大のためにコソヴォ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの少数セルビア住民保護を口実にしようと考えた。
クロアチアとスロヴェニアはユーゴのなかでも先進国であり、彼らは後進地域に足を引っ張られないよう独立を志したのだった。
ソ連崩壊後のユーゴスラヴィアはまさしくホッブズ的世界となったのだった。民兵を率いているのはたいてい元警察官だ。同じ村のセルビア人がクロアチア人を殺害する。
「国家建設の名のもとに、欧州の広範にわたる地域が、近代国家出現前の無政府状態へ、混沌へと、逆戻りした」。
「民主主義の伝統を持たぬ社会は、共産主義の空洞を、西側への被害妄想と「大セルビア」幻想とで埋めてしまったのである」。
第2章 ドイツ
東西ドイツの問題は、民が国をつくるのか、国が民をつくるのかを考える材料となる。
オッシー(東独人)とヴェッシー(西独人)は、統一した後、かれらがお互いにあまりに違うことを発見した。西独人は東独人を「泣き言だらけの穀つぶし」とよばわる。西独人の東独への否定的イメージは、国家体制から国民そのものへむけられていくようになった。
ネオナチのスキンヘッド・スタイル、ズボン吊り、人種差別の発祥はイギリスである。
「国が安らかな形でみずからに誇りをもてなくなったとき、人々が「国民(ネイション)」としてのプライドを口にできなくなったとき、愛国心は犯罪者に乗っ取られ」てしまう。ネオナチは社会主義政権も民主主義政権も信じない。「新生ドイツの悪夢は、十代のギャングたちが政治を語ることである」。
反ユダヤ主義の政権――アングロ・サクソンの反ユダヤ主義、フランスの優生学、アメリカの新ダーウィン主義。
これらに対抗するもうひとつのイデオロギーは社会主義である。徹底した国際主義であり、排外民族主義に反対してきたのだった。
排外主義の背景には移民問題がある。フランクフルトの住民の三分の一は移民である。ドイツも「自分に誇りをもたせてもらえない」国であることに悩んでいる。九六年ドイツ基本法は、外国人の「庇護を請求する権利」を大幅に制限したのだった。
ゲルマンのアイデンティティは完全に崩壊してしまった。
イグナティエフは帰属意識の「民族」から「国家」への移行が肝要であるとする。
第3章 ウクライナ
ソ連邦崩壊後もウクライナの体制は共産国時代とそれほど変わっていない。東欧諸国は「ドルをはじめとする強い外貨――ハード・カレンシー」を得ようと躍起になる。独立すること、つまり「国」をもつことでどんな違いが生まれるのか。
ウクライナは世界三位の核大国であり、世界六位の海軍国であり、反ユダヤ主義の根深い地域である。
「国を自称するまがいものの器のなかにナショナリズムの主情主義が流れ込み、民衆にこう吹き込んではいないだろうか――ウクライナ人という民族がむかしからあって、何世紀ものあいだ抑圧を受け、そしてついに自由を獲得した云々」
実際は、ウクライナ史の大半はロシアの片棒担ぎであり、うまく世渡りしていたのだった。独立も地元共産党党首の権力欲からなったにすぎない。
この国はつくられたナショナリズムにより自ら自滅した。ウクライナが独立して得したものは皆無であるとイグナティエフは言う。このままではロシアの二の舞になる、と。
歴史家ボブズボウム曰く「われわれには、あの国の人々に教えることはなにもない。われわれの教訓のなにひとつとしてあの国には通用せん。自由市場なんぞというガマの膏に効き目はない。民主主義が必ずしもうまくいくとはかぎらんのだ。われわれの輸出品が必ずしも役に立つとはかぎらんのだ。彼らは独自の道を見つけるしかないんだよ」
クラフチュク大統領はかつてナショナリストをファシストだとして投獄したが、いま民衆の前でナショナリズムを訴えている。
ウクライナ人とロシア人とドイツ人を共存させなければ間違いなく内戦がおこるだろう。
第二次大戦中、ドイツ占領軍、ソヴィエト赤軍、ウクライナ・ナショナリストは実質的な内戦状態に陥った。
ウクライナにおいて、ナショナリズムの復活とは「欧州回帰」を意味する。全国民が同一となり、結集するという夢が、ナショナリズムの正体である。
国家建設において精神的恩恵は案外楽に手に入る。問題は電話線をひき、水道を整備することだ。
クリミア半島にはクリミア―タタール人が住んでいたが、ドイツ侵攻のときスターリンの命令で強制移住させられ、半数が死んだ。戻ってきたタタール人は民族自決権を求める。「主権国家としての地位」が個人の尊厳にふかく関わるこの様子は、イスラエル建国の闘士と通じるものがある。一民族であるだけでなく、国がなければ嘲笑される。
ドネツクもまた独立心の強い地域だが、生活レベルは低い。国民はそもそもどんな生活が「本来の生活」かも知らないのだ。
「ナショナリストの独立信仰には、致命的な、考えの甘さがある。自由とは、到達点ではないのである。出発点にすぎぬのだ」。
第四章 ケベック
国民とは国についての概念を共有するから、国とは「想像の共同体」である。だが、厳密にその概念が一致することはない。
イグナティエフやインドのサルマン・ラシュディは、ナショナリズムや部族主義を克服した政治社会で生きてきたと信じて成長した。だが冷戦後、チェコスロヴァキア、インド、カナダ、ユーゴスラヴィア、ソ連、スリランカは、紛争や分裂や分離主義に侵されている。
ケベック・ナショナリストはIRAのように過激なテロ活動を開始した。
「ケベックのナショナリストは、ケベック社会を個性的たらしめていた多くのものが失われつつあるいまこのときに、ケベックが文化的社会的にいかに個性豊かであるかを主張する……結局、後進性というのもまた個性のひとつなのである」。
「ナショナリズムとはしばしば、近代化への反乱であり、経済的に困窮しあるいは衰退していく階級および地方の持つ後進性を、個人主義や資本主義、ユダヤ主義などなどの炎から守ろうとするものだった」。
第5章 クルディスタン
――クルド人が自分たちの領土だと主張している土地は、五つの国民国家にまたがっている。イラク、トルコ、シリア、イラン、アルメニア……クルド人の不運は、彼らの郷土が、近代世界で最も攻撃的かつ膨張主義の四つのナショナリズムの合流点にあることだった。クルドの建国闘争は、自身のナショナリズムよりさらに凶悪なそれによって、歪められ、力をそがれてきたのである。
――「ペシュメルガ」には、「戦士」のほかに「死に向き合う者」という意味もある。クルドの銃文化は、責任、沈着、悲壮なまでの義務感を強調するものなのだ。
部族社会のクルド人と民主主義は相容れるのか。だが軍司令官ムヘディンは彼自身両立させている。「発展」の概念がない民族もある。古いものと新しいものが並立する民族。
ジェノサイドが民族を浮き彫りにし、宿命を負わせる。
「ジェノサイドを知ってしまった民族には、生存と癒しの道はただひとつ。国民国家を持つ以外にないのである」。
ゲリラ部隊、PKK、クルド労働者党は、「古典的マルクス主義を標榜する最後の民族解放闘争のひとつ」とされる。
第6章 北アイルランド
アルスター(北アイルランド)には、民兵団、民族パラノイア、ギャング、国家安全保障文化、それらがすべて揃っている。
「北アイルランドでは……民族性、宗教、政治の三者が渾然となってアイデンティティを形成しており、よほど反抗的でないかぎり、個人がこのアイデンティティ支配から逃れることはむずかしい」。
「同一言語または同族語を話し、同じ生活様式を持ち、宗教だけが異なるという、本質的に似通った者同士が、一方が他方を支配しているという一事のゆえに反目しあってきたのである」
「いま、プロテスタントの民兵組織は、IRA以上に北アイルランドで多くの人を殺している」。
肝心のアルスター六州はすでに英国から切り捨てられつつある。
「英国はおそらく、愛国心が、帝国を構成するネイションにではなく、帝国そのものに向けられたはじめての国であったといえるだろう」。
帝国主義はナショナリズムの具現であった。劣等種族を部族的熱狂から解放するのが植民地経営であった。
ところが五〇、六〇年代から移民が流入したことで彼らの生活様式は冒されはじめた。
イグナティエフは「アメリカほど尊大でなく、ドイツほど独り善がりでなく、フランスほど自己閉塞的でもない」イギリスに好感を抱いていた。ところが、彼らの大陸への反感は考えを変えさせた。
「ナショナリズムとは無縁どころか、英国人は世界でも、ナショナリズム的熱情の最も激しい民のひとつと言えるだろう。思えば、近代ナショナリズム発祥の地もここイギリスであったのだ」。
カトリックと王党派、どちらもその尖兵は不良少年である。
「酒と歌とおしゃべりを愛する男……どう見ても根っからのアイルランド人である彼が、アイルランド人にならなくてすむようにおれはあくまで抵抗する、と言うのである」。
彼は言う、「民族ナショナリズムを唯一確実に防ぐことができるのは市民ナショナリズムである」と。強く公平で公正な国家こそ、異民族を超えて忠誠を共有させえるのだ。
ナショナリズムは逃避と妄想の言語である。民衆を現実逃避に導く者は、正しいことをいう政治家よりも長生きする。
「ナショナリストの弄する言辞が、現実をいかに書き換え作り替え、この世界を、気高い大義と悲惨な犠牲、残酷な必要悪に彩られた錯覚の国にしているかが、おぼろげながら見えてきた」。
暴力の主体は若者である、「精神病質者もなかにはいるが、多くの者はまったくの正気である」。リベラリストは「生殺与奪の権を手にすることがヒトにとってこれほど愉快でありうるとは夢にも思っていなかった」。
ナショナリズムは家庭的なものや平和を憎悪し、近代国家への怒りを暴力により発散させる。
- 作者: マイケルイグナティエフ,Michael Ignatieff,幸田敦子
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