うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『イスラーム文化―その根底にあるもの』井筒俊彦

 イスラーム学者の古典的な入門書。イスラーム文化の根源を論じる。

イスラーム文化もまた、地中海文化、イラン文化、インド文化、アフリカ文化等との文化枠組的接触の、創造的エネルギーの働きの所産にほかならない」。

 

 Ⅰ 宗教

 イスラーム宗教的基盤の上に成立する勢力である。砂漠、ベドウィンという像とイスラームを単純に結びつけることはできない。むしろ商人ムハンマドは砂漠的人間に不信を抱いていた。メッカ、メディナともに商業の栄える大都市であって、メディナユダヤ人を多く抱えていた。彼は背信行為を「稼ぎ」とたとえ、神との関係を商取引にたとえる。

「神の恩寵が金銭的にあらわされている」。

 ヘレニズムはギリシア文化にグノーシスヘルメス主義、新プラトン主義など秘教的な潮流が流れ込んだものである。イスラームはさまざまな文化と接触した国際的宗教だが、その内的矛盾は語るに値する。

 アラブ人とイラン(ペルシア)人の違いは重要である。

 ――その世界観、人生観において、存在感覚において、思惟形態において、アラブとイラン人とは多くの場合、正反対の性格を示します。

 アラブとイランの違いがすなわちスンニーとシーアの違いである。だがイスラーム全体は統一しており、その原点は『コーラン』である。その第二次聖典の位置を占めるのが、生前のムハンマドの言行を記録した「ハディース」である。イスラム法学者らにより編纂されたこの「ハディース」には当然偽書が多々ある。

 イスラーム文化とは『コーラン』の解釈学的展開である。他宗教の聖典と異なり、コーランは直接的な神の言葉であり、単一構成物である。イスラームでは原則として聖と俗の区別をつくらない。宗教が日常生活の瑣末な部分にまで浸透しているのはこのためである。キリスト教と根本的に異なるのがこの点である。イスラームにとっては政治も宗教に含まれる。

 テクストの解釈に依存するイスラム教が自分の死後に分裂していくだろうと、ムハンマドはすでに予言していた。

 統一を守るため、ウラマーコーラン研究者)がいきすぎた解釈に異端宣告をし、追放をおこなった。優れたコーランの権威者アヤトゥッラー、「神のしるし」。追放されたものは「神の敵」となり処刑と全財産没収が待っている。

 authodoxを自称するスンニーからすれば「宗教即律法」である。「セム的な人格一神教とは著しく性格を異にする仏教が果たして彼らの目から見て宗教といえるかどうか」、彼らにとって三大宗教とはユダヤ、キリスト、イスラムであろう。そもそもこの三つは同一の神から生まれた「永遠の宗教」、セム的な創造神による一神教である。

 イスラームはイブラーヒーム(アブラハム)を信じる。イブラーヒームの後生まれたモーセユダヤ教、イエスがキリスト教をつくったが、イスラームにすればこの二つは未完成であった。ムハンマドが理想としたアブラハムの宗教とは、神と人との垂直関係である。絶対的超越者である神から啓示を受けるのが預言者(ナビー)、それを自民族に伝える役目を負うと使徒(ラスール)となる。これがモーセとイエスとムハンマドである。ムハンマドは最後の預言者であると信じられたが、これが後に問題をおこす。

 アッラーは親しみとは無縁であり、神と人の関係は主人(ラップ)と奴隷(アプド)のそれである。イスラーム絶対他力信仰である。イスラームということばがすでに「絶対帰依」でありムスリムは「絶対帰依者」である。シュライエルマッハの「宗教は委嘱感情」説に合致するのがイスラームである。

 イスラーム普及以前の、偶像崇拝盛んなアラビアの時代を「無道時代」とよぶ。三位一体説は攻撃の対象である。異端のアリウス派と同じくイスラームはキリストの神性を否定する。

 ――歴史はつぎつぎに起こる出来事のとぎれとぎれの連鎖であるという、このアラブ独特の歴史観、この歴史観を打ち破って、歴史を一つの因果律的に連続する時間の流れのリズムとしてとらえたのが、ずっと後世、十四世紀、独創的歴史家として世に名高いイブン・ハルドゥーン(Ibn Khaldun)という人であります。

 彼はイスラーム思想のなかでは例外であって、アラブはやはり非連続的存在観をもっている。アトミズム、空間も時間もばらばらのものであり、原子から成り立っている。いかなる因果律も存在しない、偶然の世界だからこそ、そこに全知全能の神の支配がおこなわれるのである。

 だが、アトミズムを人間に適用すれば人間に自由意志はないことになり、彼が悪事を働くのも神の責任となる。この問題は初期イスラームにおいて議論を呼び起こしたのだった。

 

 Ⅱ 法と倫理

 「コーランの歴史」、ムハンマドの生涯に分けて前後それぞれ10年間。前期メッカ期は後期メディナ期と異なり重苦しい雰囲気に満ち、宗教はまだ制度化されていない。イスラームでは神との関係を契約ととらえる。

「神の人格性がイスラーム的コンテクストにおいては神の倫理性を意味する」。

 神は絶対的に善であり、奴隷たる人間に義務を要求する。彼は正義の神であるから不正を絶対に許さない。「復讐の神」である。

「罪悪意識に基づく神の怖れ、これを原語アラビア語でtaqwaと申しますが、このタクワー=怖れという実存的情念こそ、メッカ期のイスラームの全体のライトモチーフともいうべきものであります」。

 イスラームの世界は現世と来世の二つでできている。

「やがてメディナ期になると、もっと積極的な現世評価に発展して、イスラームを一つの特徴ある現実主義的な現世重視の宗教に仕立て上げる」。

 この暗い終末論的世界が、後期メディナ期になると豹変する。恵みの主、慈愛の神としての姿が強調され、来世の楽園が楽しげに描かれる。神は被造物として数々の「神兆(みしるし)」をつくる。メディナ期では「代理人(ハリーファ)」たるムハンマドを通して神と契約をむすぶ。契約したもの同士は兄弟姉妹、同胞となる。

 倫理においてたとえば、嘘というものはもっとも忌み嫌われる。こういった横の同胞関係で結ばれた巨大な共同体をウンマという。

 これは古代から部族主義の伝統をもっていたアラビアでは革命的なことだった。血縁によって結ばれ「ならわし(スンナ)」によって律せられる部族の散在。帰属への情熱は、「ほとんどデモーニシュ」といってもいいものだった。そしてイスラームが正面対決をしたのもこの部族主義なのだ。

 

 聖遷と、カアバ神殿の偶像叩き壊し。ムハンマドの宿敵アブー・ジャフルは本来の砂漠的人間の代表である。ところが血族意識はイスラーム普及後も残ったのだった。

 世界性と選民思想ユダヤ教イスラエルが神に選ばれた民であるという陶酔に基づき、閉鎖的であるのに対し、イスラームは信仰をもつもの誰に対しても開かれている、国際的、普遍的な宗教である。

 原則上、イスマーイール派シーア派)を除いては、イスラームは強制改宗をさせたり布教活動をしたりすることはない。彼らは自分たちを「アフル・ル・キターブ」、聖典の民、啓典の民とする。

 他に聖典をもととする宗教(キリスト、ユダヤゾロアスターなど)も、共同体の構成要素となり、「被保護者(ジンミー)」とされる。彼らは重い税を払わねばならない。

 ――要するにイスラーム共同体というものは、単にイスラーム教徒だけでできている共同体ではなくて、イスラーム教徒がいちばん上に立ち、その下に複数イスラーム以外の宗教共同体を含みながら、一つの統一体として機能する大きな「啓典の民」の多層的構造体なのであります。

 「コーランか剣か」とよくいわれるが原則的にこれはおかしいことである。イスラームは強制改宗を嫌う。「啓典の民」の取り扱いは経済的にも大問題であった。彼らをイスラームに改宗させてしまえば人頭税を徴収できなくなってしまう。これがサラセン帝国の財源だった。啓典の民でないものらにたいしては、聖戦あるのみである。

 制度化されたのちイスラームは人間肯定の宗教となったから、そこに原罪の観念はない。アダムとイヴの話はコーランにも出てくるが、重要性は旧約聖書にくらべ薄い。人間の命は絶対的なはじまりと終わりであって、インド思想からの影響も輪廻転生だけは決して受容しなかった。現世清浄化への建設的意欲がイスラームにはある。イスラームは霊性的原理でありまた政治的社会的理想だ、と近代思想家ラシード・レダーは言う。

 前世紀、近代化に基づく政教分離の是非はイスラーム世界に紛糾を巻き起こしたのだった。神は生活様式の全面に臨在する。

 イスラーム法では絶対善、相対善、善悪無記、相対悪、絶対悪(ハラーム)の五つの倫理的分類がなされる。イスラーム法は神による命令と禁止の体系である。イスラームではよって命令法の文法学的研究が発展した。盗みは本質的に悪いのでも、理性的に判断して悪いのでもない。神が悪いといったから悪いのだ。啓示を論理学、理性によって解釈していくのがイスラーム学派である、

 われわれの場合は普段法律は空気みたいなもので気づかない。だがイスラーム法は「少なくとも敬虔な信者である限り、人は法を意識することなしには、日常生活すら生きることができない」。

 『コーラン』と「ハディース」の自由解釈をイジュティハードというが九世紀中葉に禁止された。これは文化的凋落の一因ともなった。立法主義は形式主義でありイスラムは律法をきわめて死んだという声もある。

 現在シーア派のイラン以外はイジュティハードの門はいまだ閉鎖されている。

 この律法主義の対極にあるのが、精神主義の潮流である。律法との対立はユダヤとキリストを髣髴とさせる。

 

 Ⅲ 内面への道

 終末論的なメッカ期のコーランを継ぐ系統がこちらである。こちらはウラマーに対してウラファーという。ウラファーにとってウラマーは内面精神を無視した外面宗教である。ウラマーとウラファーの血で血を洗う抗争。つねに反体制、被抑圧者であったウラファーこそ、イラン的イスラーム、つまりシーア派の根源である。エクソテリックとエソテリック、顕教密教、ザーヒリーとバーティニー。

 

 シャリーアイスラーム法)ではなくバーティニーにおいて重要になるのはハキーカ(内的真理、内的実在性)である。これはイスラームにおける形而上学だろうか。

 ――西暦一一六四年の八月八日、「暗殺団」の根拠地として人びとの心に暗い恐怖の影を投げかけていたアラムートの山砦で、「内面的イスラーム」時代の到来を告げ、シャリーアの全面的廃棄を世に宣言したシーア派の異端分派イスマーイール派のような例外的な場合……

 ウラファーの主張は、ハキーカのないシャリーアは生命のないぬけがらにすぎない、というものであった。

 内面的なイスラームにも二つの種類があり、ひとつはシーア派イスラーム、もうひとつはスーフィズムといわれるイスラーム神秘主義である。シーア派においてもっとも重要な「十二イマーム派」について。

「神の言葉の内面に「秘密の意味」を認めるシーア派の人々にとっては、『コーラン』は一つの暗号書です」。

 暗号解読の操作をタアウィールという。

 シーア派はイラン的(ペルシア的)である。

「現世は――タアウィールによって内面化され、象徴的世界として見直されない限り――完全に俗なる世界であり、存在の俗なる次元を代表するものとして、存在の天上的な次元とあくまで戦うことを本性とする悪と闇の世界である、と考えられる」。

 イマームとはシーア派の最高権威者である。彼らによればイマームは、そもそも預言者の内面の体現なのであるという。預言者もイマームも、同一の根源、神の光明、光の光である。こういったシーア派的思想とグノーシスには類似が見られるという。

 ムハンマドの預言が、啓示の天使ガブリエルを通して下される間接的な啓示であるのにたいして内的預言は神から直接イマームの心に下されるものである。十二代イマームムハンマド・イブン・ハサンは五歳のとき、父十一代目イマームの死とともに姿を消した。シーア派によればこれは暗殺でなく彼が内的次元の世界に身を隠したのだという。「お隠れ」、潜伏、これはイラン的な発想であるという。

 イラン人は「一般に本来、著しく幻想的であり、神話的であり、その存在感覚において、いわば体質的に超現実主義者、シュールレアリストである」。と同時に、きわめて精緻な論理主義者でもある。イスラーム法学は大半イラン人によって形成されてきた。思考においては論理的、存在感覚においては幻想的、と著者は言う。

 スーフィズムでは神は遍在し、あらゆる内面に存在する。徹底的な現世否定に基づいて、禁欲と清貧を励行する。厭世主義、現実逃避思想などとよばれる所以である。

 スーフィズムでは最大の悪は自我である。人間に我の意識があるかぎり我は神と対立してしまう。自我が消滅するときに汝の実在性があらわれ、神の光に満たされる。これを照明説、イシュラークという。

 スンニー、シーア、スーフィー、この3つの闘争によってイスラーム世界は成立している。

イスラーム文化−その根柢にあるもの (岩波文庫)

イスラーム文化−その根柢にあるもの (岩波文庫)