うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『批評の途』ノースロップ・フライ

  副題は「文芸批評の社会的コンテクストにたいする試論」。フライはブレイクの解読を足がかりにして、批評の役割を考えていた。

 文学を、学問や思想から切り離し、作品そのものとして受け入れる立場をとる。

 所々難しくて理解できない箇所がある。


 第一章

 ――批評は文学の理論であって、その実作にあたっての小さな非本質的な要素であるのではありません。

 批評の自立とはなにか。ウォルター・ローリー卿のことば「文学は死せる思想の記念碑」の通り、「批評的伝統は歴史と哲学の混合に基づいていました」。

 文学を論述の文脈に組み入れるかぎり、詩や散文は作者や社会についての記録文書でしかなくなる(伝記批評の真祖)。

 「詩の詩的形式こそ、その意味の第一義的な基礎である」、そして「一篇の詩にとって最も明白な文学的コンテクストは、その作者の全作品」である。

 ――詩は同じイメージから作られている、といっても、それはちょうど、英語の詩はみな同じ言語で作られているというのと同じです。

 理解には素朴的なものと情感的なものがある。素朴なものとは線的な物語をとらえる場合のことで、サスペンスや期待を効果とする。近代になるとこれが廃止され、情感的な、本をひとつの統一体として構成する作品がもてはやされた。

 理想的経験を再現しようとする統一された本、ジョイス、プルースト、エリオットの書いた本は、どれもアダムとイヴの楽園を目指す。恍惚体験、神秘体験、陶酔、こういう類である。

 ――理論と事実は同一の平面になくてはなりません。つまり、心理学の理論や政治学の理論は、心理や政治の事実を説明することができるだけです。同様に文学の事実は、文学の理論以外の何物によっても説明することはできません。

 また、批評家の思い込みを批評の対象に押し付けるのもあやまりのひとつである。

 

 第二章

 文学の慣習、ジャンル、原型がどのようにしてつくられるか……。

 民話は表面を改変される漂流物にすぎないが、神話はみずから体系をつくり、百科全書的傾向を帯びる。神話の登場人物は個性をもつ存在となり、文化全体に関心をのばす。これが関心の言語であり、それは信仰の形をとってあらわれる。

 ――欧米の文化が継承してきた関心の神話は、いうまでもなく、聖書のなかに説かれ、キリスト教会によって教義のかたちで教えられてきたユダヤキリスト教的神話です。

 口承社会においては詩人こそ神話の担い手である。文書の存在しない世界では、生きのびるために長老や年配者のことばが尊重される。口承時代の散文は不連続的である。

 ――ヘラクレイトスからマクルーハンにいたる託宣的散文作家は、文章の終わりに多くの時間と空間を残し、連続的なつなぎの言葉を少なくすることによって、ありあまる豊饒感を醸しだすことを考え付きました。

 神はそれを崇める国家のかたちに似る。貴族政治は多神教を生み出し、強力な帝国は唯一神を奉ずる。ユダヤキリスト教一神教のなかでも異質な例である。彼らは軍事的成功に乏しかったため、遠い未来に勝利が訪れることを信じた(黙示録、千年王国)。このためユダヤキリスト教は革命の神話であるとフライは考える。

 マルクス主義もまた、革命神話の伝統を踏襲している。一回性、近親憎悪(パリサイ派グノーシス派、トロツキー劉少奇への攻撃)、修正主義への嫌悪(新教、原点回帰)。

 神話と自由のどちらか一極にいたると社会はひどいものになる。

 

 第三章

 ヒューマニズムの誕生について、彼らは宗教と世俗権力の「両方の権威の保護のもとにその社会の学問と文化を発展させようとした」。君主を囲む騎士の環にかわる、文人・知識人のイメージ。人文主義特有の文学形式……書簡、修辞学の弁護書、対談、論文、ユートピアもの。

 人文主義は社会体制の補強の役割を担った。だが、ミルトンのいう「古代的自由」を体言する立場でもあった。マルクス主義は芸術に抗議と称賛を要求する。

 ロマン主義では、詩人のことばは神託の類となる。

「作家こそ、教会と国家の失われた権威を理想的なかたちで保存する文化的伝統の、世俗的な祭司であって、その奥義を伝えるものである」。

 古典は時間をまとっているので権威となる。原始回帰の傾向は各所に見られる。

 

 第四章

 詩が余暇をつぶすものと考えられるようになり、慣習は軽蔑され「独創性」に地位を譲る。啓蒙家、宗教家としての詩人は姿を消す。

 ――二十世紀になると、重要な優れた作家は、反動的であったり、迷信的であったりします。いずれにせよ、明らかひとつのことは、彼がもはや通常の社会的価値のスポークスマンにはなりえないことです。

 詩はつねに人間の原始的な面を表現する。それは機械や技術、進化論とは対立する。

「文学が、信仰や思想の受肉であるよりは、むしろ言語の受肉であるということは、あいかわらず真実です」、「文学の種類は無限であるがゆえに、文学は、宗教的神話や政治的神話におけるいかなる関心の定式化によっても表現しきれないような広範な百科全書的関心を提示します」。

 関心から想像力へ。

 

 第五章

 神話の言語と論理の言語はまったく別のものである。関心の神話はかならず境界をつくる。関心の神話が複数あることを受け入れるのが民主主義である。ユダヤ人は閉じた神話のなかでつねに異物の機能を果たしてきた。

 関心の神話を理解するには、歴史や論理よりも想像力を用いるほうが有益である。関心の戦術、つまり広報活動は、批判的知性を破壊し、表面と実在が異なるという認識を破壊する。ものごとを単純化することが主流になる。

「神話は現在時制の言語です」。

 ――想像力はそのものだけでは関心ではありませんが、高度に発達した、事実の感覚と、経験の限界の感覚をもった文化にあっては、想像力の言語のなかを、関心に至る道が走っています。

 詩を読む場合には、表面の陳述即ち上部思考は切り捨て、下部思考、つまりイメージやメタファーの連続をとらえることが重要である。

 ――批評は評価を目指すものではないということです。

 関心と自由の対立。文学が完全に神話(イデオロギー)に隷属することはない。

 

 第六章

 アメリカにおける関心の神話の状況から、大学紛争、若者文化の話へ。批評方法とはますます遠ざかっていく。

 本書の大半はイデオロギーについての検討である。イデオロギー、すなわち関心の神話は「特定の社会的目的のために考案された言語的構築物」である。一方、文学は単純によろこびを提供する。

 ――このような観点から見ると、想像の世界はある程度、信じたりコミットしたりすることから休む休暇の世界、安息日の世界……より偉大な神秘の領域です。

批評の途 (1974年)

批評の途 (1974年)