うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ロシア革命 一九〇〇―一九二七』ロバート・サーヴィス

 ところどころ翻訳がおかしい。

 ロシア革命には様々な解釈があるようで、この本は帝政ロシアからの支配制度が衣を変えただけという考え方である。

 

 第1章 不安定な構造 一九〇〇―一九一四

 ロシアはつねに不安定な状態にあり、伝統主義と工業化の二重の危機にみまわれていた。これを爆発させたのがWW1という消耗戦である。著者曰く戦争がなければ革命もなかっただろう。

 二十世紀初頭に帝国主義が栄えるなか、ロシアは厳しい条件のもとで近代化を迫られた。シベリアは永久凍土、中央アジアは砂漠、モスクワの冬は寒く、東ポーランドからウラジオストクまでは五〇〇〇マイルあった。ロシア人は人口の五分の二にすぎず、資源は分散していた。

 国土を維持するため必然的に専制が必要となる。

「ロシア君主制権威主義の極端な事例だった」。

 アレクサンドルⅢとニコライⅡのときから、急激な近代化がはじまる。国有企業と国家発注契約が経済発展の主要因である。

 フランス・ベルギー等の外資投入により、ペテルブルクの証券取引所は繁盛した。農業生産も、人口に相殺されてはいたが、着実に増大した。

 ストライキは軍隊により鎮圧された。オフラナ(政治警察)による革命家、社会主義者、自由主義者の検挙。黒海艦隊の反乱、日本に対する敗北、ソヴェト(評議会)設立。

 ――一九〇五年一月九日、立憲的改革と社会改革とを求めるガポンの平和的行進に向かって、守備隊が発砲した。この「血の日曜日」事件は、ストライキと民衆の行進とを引き起こした。

 不満の安全弁として、ドゥーマ(議会)がつくられる。ヴィッテやストルィピンなど直言型政治家は退けられ、ラスプーチンら怪しい山師たちが宮殿を跋扈する。宗教軍隊たる正教会ムスリムユダヤの迫害(黒百人組によるポグロム)を手をこまねいて眺めた。

 フランスからの借款以降、露仏関係は密接になっていた。一方ドイツとの関係は悪化しており、これが一九一四年の戦争につながった。愛国的熱狂により、当初、国はまとまるかに思えた。

 ――一九一四年八月のタンネンベルクの戦いで、ドイツ軍はロシア軍を包囲し、何万人という兵士を捕虜にした。戦争が長期にわたるものであることもまた明らかになった。

 

 第2章 崩壊 一九一五―一九一七

 革命についてはさまざまな解釈があるが、レーニンの力が大きかったという点では一致を見る。政党争いが「下層社会で起こったことに形を与えた」一方、この下層社会も活動理念と形態をつくりだした。レーニンは大衆を手に入れ、ケレンスキーは逸した。

 一九一六年にはロシア経済は崩壊した。一九一七年二月のニコライⅡ退位によって、カデットが政権をとる。彼らは「都市と農村の中流階級の利益を守」ろうとした。このリヴォフ内閣はしかし、ペトログラード・ソヴィエトとの協調をせまられた。

 ――数百年におよぶ政府の監督から解放された聖職者は、その自由を用いて身内の争いを展開した。

 臨時政府は、ソヴィエトのメンシェヴィキとエスエルが急進勢力を抑えてくれることを期待した。戦争をめぐって意見の対立はあったが、社会主義勢力は軍のクーデターを避けるため臨時政府との妥協は不可欠と覚悟していた。

 臨時政府とソヴィエトの決裂。ケレンスキー内閣は解放され、十月、全ソヴィエト大会が権力を掌握する(十月革命)。

 

 第3章 実験の限界 一九一七―一九二七

 レーニンおよび党は、はじめから国家テロを用いた独裁を意図していたのだろうか。ある程度までは、彼らの独裁は環境に適応するためのものだったといえよう。経済は崩壊し、行政機関はストップし、政治・宗教・民族の面からの反乱危機があった。さらにユーラシアにおいてソヴィエト体制が孤立したことも、強固な一党独裁の原因となった。

 ほかに文化の問題……「ロシア人は寛容という概念を身につけておらず、第一次世界大戦と内戦がそれでなくとも粗暴な感情と行動とを残忍なものにした」。

 ソヴナルコム(人民委員会議)の議長レーニンは行政を開始するが、はじめはペトログラードに対してしか実効力をもたなかった。

ボリシェヴィキに率いられた他の都市ソヴィエトは首都の例に従った」。

 ケレンスキーのコサック騎馬隊など多少の抵抗はあったが、大きな衝突にはいたらなかった。

 現実に即して、レーニンは独墺と単独講和を結び、ウクライナベラルーシバルト三国の権利を放棄した。中央委員会の下部組織「政治局」と「組織局」が実権をにぎる。

 内戦の勃発……アレクセーエフ将軍を受け継いだデニーキン将軍、コルチャック提督の白衛軍。対抗するトロツキーは旧帝国軍の将校を赤軍に雇い入れた。ただし、一人一人に「政治委員」という監視役をつけ、また家族も人質にとって。

 白衛軍を支援するはずの英仏支援部隊は参加しなかった。ロマノフ王家の処刑、ポーランド軍団の反乱失敗など。一九二〇年には内戦はほぼ終結していた。

 新経済政策(ネップ)により穀物徴発は廃止された。一九二〇年代を通じて外国との貿易は増加する。革命によっても、正教あるいはイスラームといった、農民たちの土着宗教は残りつづけた。

 ――ソヴィエト体制は、単にすぐれた大量処刑執行人であっただけではなかった。それはまた、いくらかの政治的管理術に磨きをかけた。

 一九二四年にレーニンが死に、政治局、組織局、そして書記局が力をもった。農民はかつて皇帝礼拝の旅をおこなったように、レーニンへの巡礼の旅をおこなった。

無神論者レーニンが擬似宗教的な崇拝の対象となるようなレーニン礼賛が組織された」。

 スターリンジノヴィエフカーメネフブハーリンらは、ネップが資本主義に類似している、という左翼の主張を打ち負かした。やがてジノヴィエフカーメネフトロツキーの合同反対派に合流し、もろともに追放された。ネップ崩壊とゴスプラン(国家計画委員会)による五ヵ年計画作成。一九二七年はスターリンによる本格的な国家改造がはじまった年だった。

 

 第4章 結論

 帝政と共産主義体制とに共通するもの……政治的不自由、イデオロギー的不寛容、絶望的な貧困。レーニンはおそらくスターリンのような個人崇拝の道を選ばなかったろう。スターリンによる工業化計画、農業集団化がおこなわれる以前から、近代化ははじまっていたのだ。

  ***

 ロシアという条件の厳しい土地を統制するには、強制力を用いるしかないのだろう。帝政、ソヴィエト、大統領制と制度は変われど、通低音は変わらないようだ。

ロシア革命1900-1927 (ヨーロッパ史入門)

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