うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『英国史』アンドレ・モロワ その3

 第六篇 君主制と寡頭制

 ウィリアム三世は英蘭銀行を設立し政治と経済的利害を一致させた。次のアン女王の代にスペイン継承戦争がおこる。カルロス二世の後継がフランスから出るかオーストリアから出るかが問題だった。イギリスはオーストリアプロイセンと同盟しフランスを圧倒した。ところがオーストリアがスペインを領有しそうになるや、今度はオーストリアを見殺しにした。

 この頃からトーリ党とホイッグ党の政権争いが頻度を増すようになる。ユトレヒト条約により英国は覇権を確立する。

 ――ハノーヴァー朝初期の諸王は、凡庸であったために却って歴史的な重要性を持つことが出来た。即ち、彼らの凡庸さがイギリスの君主制の議会主義的君主制への転化を完成させたのである。

 英語のできないジョージ一世にかわりウォルポールが首相をつとめる。彼が内閣を監督することが責任内閣制の起源となった。

「彼は、長期にわたる泰平を維持することによて、すでに王朝の基礎を固めると同時に、国を富ませていた。そしてこの国富そのものが、更に新しい数々の人物を輩出させはじめていた。征服欲に燃えたイギリスは帝国たらんことを渇望しはじめていた。イギリスは、もはや、平和をも、常識をも、否、幸福をすら希求しないで、ひたすら勝利の報道を、占領した都市の一覧表を、凱旋を、冒険を希求していた」。

 ふたたび英普と墺仏のあいだで戦争がはじまった。オーストリアは宿敵フランスと同盟したがこれは外交革命と名づけられた。チャールズ=エドワードはイギリスに侵入するが、英国最強とうたわれるスコットランド高地軍に苦戦し、やがて撃退される。これが七年戦争だ。欧州にとどまらず英仏はインド、カナダで抗争した。東インド会社軍クライヴは仏のデュプレクスベンガル州総督)を破ってインド帝国を建設した。

 この時代はイギリスの最盛期といってよかった。国民の階級同化が進んだがやがて機械化により破壊される。ねずみ小僧のようなジャック・シェパード。

 ――ヨーロッパ全体にわたって、十八世紀前半の人びとは、多くの共通点を持っている。軽佻浮薄、快楽への耽溺、懐疑主義――余りにも幸福すぎる社会のあらゆる特徴が、巴里においてもロンドンにおいても見受けられる。

 ウォルポールにかわる首相ウィリアム・ピットは英雄的な指揮により七年戦争を勝利に導き、海軍大国の基盤を固める。ジョージ三世はふたたび親政を行おうとするが議会や国民からの反発であきらめた。彼の治世にアメリカが独立した。復讐に燃えるブルボン家が植民地軍に味方しなければワシントンも勝てなかったろうとモロワは書いている。

 ピットの息子小ピットが二十数年にわたって首相をつとめた。ナポレオン戦争の途中経過、アウステルリッツで独墺連合軍が惨敗した時点で、海上はイギリスに、大陸はフランスに統治される状態になった。フランスはベルリン条約によって英国にたいし『大陸閉鎖』をおこなった。これが原因で米英戦争がおこる。

「だが、大陸封鎖は、結局においてナポレオンを没落に導いた」。

 フランス軍はスペイン(ゲリラ向けの地)で完全な敗北を喫した。ネルソン提督のトラファルガー海戦

 

 ポルトガルに上陸したウェリントンは「攻撃的防御」なる画期的火器戦術を用いた。

「部隊の大多数は掩蔽地に陣取り、ただ僅かに狙撃歩兵だけがその陣地よりも先に出て、敵の縦隊を待ち受ける」。

 このため訓練された部隊が、ブサコフ、サラマンカワーテルローで勝利をおさめることになる。

 ナポレオンはスペインを失い、ロシア親征に失敗し、一九一三年ライプチヒ会戦で露普墺連合軍に敗れた。つづくワーテルローの戦いウェリントンの英独寡兵が勝った。ヴィーン会議は勢力均衡と正統王朝を尊重するものだった。

 十八世紀には囲い込みによって農村の中産階級が没落し、貧民が都市に押し寄せた。

「……『楽しきイギリス』とまで謳われた国の農村人口は、公共の救済金によって辛くも露命をつなぐ不幸な人々の集団に早変わりしたのであった」。

 ――偉大な社会的変化が生ずる毎に必ずその理論家たちが現われて、種々の過渡的結果を説明するためにいろいろの恒久的原因を考え出すのが常である。

 アダム・スミスの登場により、十九世紀になると重商主義が廃れ自由主義経済の時代が到来する。感情革命、物質にめぐまれたこの時代ははたして軽佻浮薄、淫蕩、表面的だったのか。

「人間の精神が何ら傷心の問題によって乱されなかったという如きは、到底考え得られないことである」。

 ギボンやジョンソンは熱情をもっていたが彼らは没落階級とはかけ離れたところにいた。国教会は抽象的な議論に夢中になっていた。そのなかでジョン・ウェスリーは民衆の立場を考えるメソジストを設立した。

 

 第七篇 貴族政治から民主制へ

 ナポレオン戦争後、一時的に経済状況が悪くなった。ジョージ三世は「その発狂状態のおかげで最も立憲的な君主」となった。都市の治安判事は近衛騎兵を集め警備にあたった。党争のなか腐敗選挙区が取りざたされ、選挙法が改革される。

 富裕階級と貧民階級が分化し、救貧法の改正に話題は移る。この当時に題材をとったのがディケンズ等だった。

 ――実際のところ、貧乏人どもは、働くか、餓死するか、そのいずれかを選ばねばならないことがわかれば、働くものなのだ。青年たちは老境に入ってからも救済してもらえないことがわかれば倹約するし、また老人たちは、やがて子供たちの世話になる必要があるとわかれば努めて子供たちから愛されるようにする。従って、本当に身寄りも生活能力もない人々以外は絶対に救済しないことだ。部分的な給与を支給してはいけない。全部的救済か、それとも救済の全部的廃止か、そのいずれかだ。

 一八三七年からヴィクトリア朝がはじまる。

 保護貿易自由貿易かをめぐって、保守党(トーリから改称)のサー・ロバート・ピールとユダヤ人政治家ベンジャミン・ディズレーリらは対立した。ディズレーリユダヤ人だったが幼少時に国教徒に改宗していた。彼はピールの説を批判し保護貿易推進をとなえた。やがてディズレーリとダービー伯が保守党のトップに立ち、ピール亡きあとに自由貿易を推進するピール党があらわれ、その棟梁はグラッドストンとなった。

 下層労働者の惨状やアイルランド飢饉にたいし、労働の法が整備された。外相カニングに続くパーマストン(一八三〇―一八五一)は大英帝国の維持につとめた。ベルギー独立は彼によってなされた。一八五一年にはナポレオン三世のクーデターを承認しさらに人気を得て首相に就いた。

 ――一八五四年、イギリスとフランスは、トルコの諸州を侵略したロシアに対して宣戦を布告した。英仏の連合艦隊は、ボスホラス海峡を通過して、ロシア艦隊をセバストポル要塞港へ逃げ込むことを余儀なくさせた。

 これがクリミア戦争である。準備不足と調子付いた世論がたたって二万五千もの戦死者を出した。パリ条約によって黒海からロシアは排除され、瀕死のトルコは救われたかにみえた。しかしこのあとロシアは膨張によって欧州アジアを混乱させることになる。

 ナポレオン三世イタリア統一について……英はガリバルディを支援する。南北戦争でははじめ南部を支持したため、終結時北米に賠償金を支払わねばならなかった。南北戦争前後から移民の流入が増えたため、アメリカはアングロサクソンの国ではなくなった。

 デンマーク侵攻によるシュレスヴィヒ・ホルスタイン両国奪取から、プロイセンが台頭をはじめた。このとき英国は助けにいくといっておきながらデンマークを見殺しにした。

 モロワによればヴィクトリア朝の若干の人びとの心理状態は「荘重と慎重と力との混合物」だった。ブルジョワジーは急進主義を捨てて保守的な気取りを帯びる。しかし労働者は劣悪な環境に置かれ、ある地域では平均寿命が二五歳だった。

 保守党ディズレーリ自由党グラッドストンのたたかい。ディズレーリは自ら帝国主義者をもって任じ、チェンバレン、ローズ、キプリングの先駆となった。また、女王にインド皇帝の冠を奉じた。

 南アフリカ、インド、アフガニスタンアイルランド、なぜ大英帝国の各地から火がついたのか? グラッドストンは演説で言った「世には政治的必要以外のものが存するからだ、道徳的必要が存するからだ」。

 イギリス軍はカイロに入城すると、一人の回教徒が決起しエジプト兵を駆逐する。こうしてスーダン戦役がはじまる。ヒックス将軍、つづいて国民的英雄ゴードンが殺される。

 科学に比重をおかない社交的教育をほどこす国から、ダーウィンやハクスリーなどの科学者がたてつづけに輩出されたのはなぜだろうか。大陸の急進的社会主義はこの島には根づかず、変形して定着した。

 一時的に植民地が否定的にとられ、オランダ、フランスへの返還もおこなわれた。しかしインドとカナダは牙城として残った。各国はアフリカ争奪戦をはじめたが、英国は手を出さなかった。かわりにセシル・ローズのブリティッシュ南アフリカ会社はじめとする特許会社が植民地経営をしてくれたからだ。

 フランスとイギリスは、エジプトをめぐって一時不穏な情勢になる。

「当時のイギリスは、世界中で不人気であった。というのは、イギリスは国民にとっても個人にとっても危険な傲慢と得意の時代を経験しつつあったからである」。

 イギリスの覇権にひびが入りつつあった。

「帝国の版図は非常に広くなった。従って、イギリスとしては、いつなんどきその軍隊の大きな部分をどこか遠隔の地に送らねばならなくなるか分からぬ、といった有様であった……敵国のいずれかがこうした瞬間を利用して、インドを、エジプトを、否、イギリス本土をさえ攻撃するようなことがあるとしたらば、その際に果たして何者がイギリスを守ってくれるだろうか?」

 そして英仏は同盟を結び、ロシアも加わって三国協商が成立した。

 ジョゼフ・チェンバレン、アスキス続いてロイド・ジョージチャーチルはこのとき海相だった。ドイツ艦隊の拡張はイギリスを超える勢いとなる。

 ――イギリス同様、ヨーロッパにおいても、わりあい平穏な一時期のあとを受けて、もろもろの暴力哲学に昂奮した不安と動揺の一時期が来た。

 イギリスはアイルランド叛乱に手を焼いていた。第一次世界大戦が終ると、復讐のために「ドイツに要求する賠償金を途方もない数字にまでせり上げた」。恐慌がやってくる。労働党マクドナルドに続いて、保守党ボールドウィン。ウィッグ党は消滅した。

 航空の発達によりマルタやジブラルタルの価値は薄れ、制海権の時代から制空権の時代へと変化する。エドワード八世の譲位事件は、君主制がまだ力を持っていることを証明した。

英国史 (上) (新潮文庫)

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英国史 (下) (新潮文庫)

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