うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『英国史』アンドレ・モロワ その1

 イギリスの歴史。成立の過程は複雑だが、随所に皮肉が混じっておりおもしろい。

 

 第一篇 先住民族
 イギリスは島国でありながら大陸に近かったので独特の島国文明を築いた。イギリスは侵入しやすい地形と気候をもつ。またラテン・ゲルマン双方の影響が大きい。石器時代人やスペインからやってきたイベリア人のあと、紀元前6~4世紀にかけて、好戦的な牧畜種族であるケルト人がやってきた。彼ら氏族(クラン)は戦争を好み、ときには仲間同士の戦争も楽しんだ。

 このケルト侵入にはふたつの潮流があり、ひとつはゴイデル人、ゲール人からなるものでスコットランドの高地地方(ハイランド)やアイルランドゲール語を残した。もうひとつはブリトン人でありウェールズ人やフランスのブルターニュ人の言語を残した。クランclanはいまでは消滅したケルト語のなごりである。ゴールとは西ヨーロッパの広汎にわたる地名。

 ケルト人は血族社会だったので国家はおろか村落共同体もなかった。これはラテンまたはゲルマンの文明である。ドルイド僧。ケルト人には大陸ケルトベルギー人も含まれる。

 はじめにゴール人が、つづいて英国のケルト人もローマに征服される。

「元来ケーザルの好んで用いた方法は土着民利用政策で、彼等を相互に対立させることによって次々に諸種族を平定するというやり方であった」。

 しかしこのときは直截輸送船で乗り込んだ。ローマはついにイングランド北部を征服することはできなかった。

 ローマ軍の野営地(castra)はのちにチェスター、セスターという地名に転じた。ローマ帝国は宗教に寛容で、キリスト教以前には国教はなかったようだ。ミトラはペルシアの軍神太陽神で軍人階級に支持されていたが、ほかにもケルト人は彼らの神を、ほかにもマルスやエジプトの神など好き勝手に信仰がおこなわれていたという。

 三世紀以降のローマ軍弱体化とロシアの騎馬民族ゴート人の台頭……「ローマ人以外の者でない限り、軍隊で役に立つ者は一人もいない」。

 ――幸福な文明に馴れると、市民は自己の自由が結局において自己の軍事的価値に依存するということを忘れるようになるが、それはとくに危険である。

 ローマ領ブリタニアはたびたびピクト族、ブリガント族、スコット族の入寇に悩まされた。大陸の衰退に続いてローマ領ブリタニアも衰退した。ブリトン人のヴォーティジャーンは北方蛮族に対抗するためドイツエルベ川ゲルマン人の一派サクソン人を雇ったが、彼らは「島に招じ入れられるが早いか、自分たちの傭主に寝返りを打った、と年代記作者は述べている」。サクソン人の侵入は凄惨をきわめ、ケルト人は辺境に逃れ、ウェールズ人と北仏ブルターニュ人となった。

 サクソン人に対抗したのが中仏のサン=ジェルマン司教やかのアーサー王(伝説)である。こうしてイングランドケルト・ローマからアングル人、サクソン人、ユート人の島となった。

 ――ローマの残した遺産として、イギリスは、すべてのヨーロッパ諸国と同様に、キリスト教と国家観念とを受け取った。

 サクソン人、アングル人は生真面目、苛烈、好戦的な気質をもっていた。サクソン人時代の七王国のひとつにハーディのウェセックスがある。彼らの社会もまた「血縁で結ばれた人びとの群、即ち部族が個人よりも尊重される」ものだった、「そこでは、愛情も憎悪も賠償もみな集団的である」。イングランドに福音がもたらされたが、ブリトン人は彼ら独自のキリスト教を固守した。

「北欧武士の精神とキリスト教的精神との混交は、後世に至って、騎士道物語の英雄を作り出すことになる」。

 八世紀末から、「バイキング(北欧の海賊たち)」、デーン人たちがサガとゲルマン法をかかえて英国に襲来する。デーン人の侵入は防衛のための職業軍人階級成立、およびサクソン諸王の団結につながった。

 ――アルフレッドは伝説の王であるが、この王の伝説は真実である。この単純で賢明な人物は、兵士でもあれば船乗りでもあり、文学者でもあれば立法者でもあったが、キリスト教のイギリスを救ったのは彼なのだ。

 大王はデーン人とのたたかいの時代に生まれた。病弱だったが負けじ魂をもち、勉学の野望に燃えた。アルフレッドの撃退により一時侵入は止むが、ノルウェー王国デンマーク王国の成立により北欧が安定すると再び激化した。

 やがてデンマークのクヌート王がイギリスの王位につき、この王はノルウェーデンマークを統一した。王を指名するのは賢人会議(ウィタン)である。

 彼の没後ノルマン・コンクエストがはじまる。ノルマンとはノルマンディー(フランス)に定住したデーン人で、フランス語をしゃべる。

 エドワード懺悔王、彼はノルマン征服前の最後の王でありウェストミンスター寺院をたてた。ノルマンディーの庶子ギヨームはエドワードの親類ハロルドを策謀によっておとしいれ王位簒奪をする。

「当時の封建法の諸原則は、今日の国際法の原則と同じようなものである。それらの原則を最も尊重しない連中が、他の連中に向かってそれを破るのを非難するのであった」。

 イングランド遠征のギヨーム軍にくわえ裏切り者のノルウェー王おもハロルドは相手にしなければならなかった。

 ギヨームはハロルド軍を王もろとも殺し、賢人会議から王冠を戴いた。

「彼はテームズ河のほとりのロンドン市の入口に、城塞の最初の礎石を置いたのであった。これがやがてあの有名にして陰惨なロンドン塔となるのである」。

 ギヨームあらためウィリアム征服王も、ウェールズスコットランドを併合することはなかった。

 

 第二篇 仏蘭西系諸王

 ウィリアム一世はじめとするノルマン人の言葉を理解するイギリス人は皆無だった。五〇〇〇人のノルマン騎士が土地領有と守備を任命され、要職はノルマン人で占められた。民衆のみが話すサクソン語は簡略化されてやがて英語になる。一方ノルマン人の話すフランス語も流入する。シャトーchateauはcastleなど。prisonとjustice(司法)は英仏同一である。

 ウィリアムは検察を全国に派遣しドゥームズデイ・ブックdomesdaybookすなわち土地調査名簿をつくった。彼はシカ狩、猪狩に狂っていて、国土の三分の一をつぶして王有林をつくった。不法侵入は両目えぐりの刑、シカ殺害は絞首刑その他。

征服王はひとたび狩猟のこととなると夢中で、その前には政治的考慮など問題ではなかった……森林は王国の普通法の外にある。森林は国王のあらゆる心労をやすめる、公正であろうとする心労までを……」。

 息子赤顔王は死に、名君ヘンリ一世が統治をおこなった。

「彼等は広く秩序を敷き、教会の権利と君主の権利との間に双方の満足するような均衡を維持し、国家の財政を組織化し、司法制度を改革した」。

 しかしヘンリ一世の後継者が定まらず無政府状態になった。

 ヘンリ一世の孫ヘンリ二世からプランタジネット朝がはじまる。ヘンリ二世はフランス王も兼ねていた。トマス・ベケットは彼によってカンタベリ大司教に任命されたが、やがてローマに忠誠を誓い王と対立し、殺された。カンタベリ巡礼は王権への抵抗の象徴となった。ヘンリ二世は司法・警察制度を整備し、この過程で普通法(コモン・ロー)がうまれた。もっとも重い罪は大逆罪だった。ロンドン橋は大逆犯の首で充たされた。

 お家騒動ののち獅子心王リチャードが冠を戴く。十字軍遠征の帰り道に神聖ローマ皇帝ドイツ王ハインリヒ二世に監禁され、結局フランスで客死した。

 ――彼は殆どイギリスの歴史とは無関係である……なるほど彼は文芸復興期の若干の傭兵隊長(コンドツティエリ)や、十八世紀の若干の遊蕩児たちと同様に、一つの人間型のまことに恰好な見本であって、今日では非難されてはいるが、その当時は輿論から支持された人間の型だったのである。

 欠地王ジョンは「外交と軍事の大戦術家であり、女たらしの名人でかつ狩猟の名手ではあったが、しかし残忍で卑劣な魂の持主であった」。彼には「嫌悪すべきもの以外の何物もなかった」。

 都市の発展は城邑(バーグ、バラー)や、フォード(徒渉場)、ブリッジ(橋)など渡河点におこった。自由(特権)は金で買われるようになる。

 「イギリスは、個人的並びに封建的関係から、愛国的ならびに国民的関係へは移っていかないで、寧ろ王と王国内における種々の『身分』すなわち共同体団体との間の関係に移っていく」。都市は紋章をもつ領主であり、共同体は勢力となった。

 ――十一世紀から十三世紀にかけて、ヨーロッパのキリスト教諸国は、あたかも宗教上の一帝国であるかのごとき観を呈している。すべての国々の聖職者はラテン語を話す。教会は単一の信仰を教える。十字軍はキリスト教徒たる諸王の共同の企てである。武士の団体(テンプル騎士団聖ヨハネ騎士団)は国際軍隊である。

 ヘンリ三世がシモン・ド・モンフォールを殺すことで「ノルマンディー家やアンジュー家」、つまりフランス人はイギリスから消える。貴族たるノルマン人は英語だけを学ぶようになる。だがフランス人は英国に大憲章(マグナ・カルタ)をもたらした。

 イギリスは大陸から独立し、「フランス本国よりも強固な法律と、フランス本国の繁栄よりも堅実な繁栄」を手に入れる。

英国史 (上) (新潮文庫)

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英国史 (下) (新潮文庫)

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