うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『清帝国の繁栄』宮崎市定

 ――税金は高くなればなるほど、その負担が不公平になる。

 秀吉の朝鮮出兵万暦帝の明財政を逼迫し、満州族の台頭に一役買うこととなった。あわせて飢餓が起こると、どうせ死ぬなら、と農民がいっせいに盗賊となる。これを討伐するために派遣された軍隊で糧食が欠乏すると、彼らも一緒になって盗賊をする。
 頭角をあらわした李自成と参謀の李信は崇禎帝を包囲し、帝は自害した。中国大陸の君主は圧倒的な権力をもつかわり、亡びるときも自分でその責任を負わなければならない。

 

 李自成は大順王朝をたてるが、そのころ「満州から興った新興の清朝が長城の前線に重圧を加えて」いた。ヌルハチホンタイジとくだり、順治帝のとき明は亡びる。清朝は明の遺臣呉三桂の手引きにより山海関から中原に侵入する。

 順治帝は李自成を破り北京に都を定める。李自成は落ち武者となったところを村民に殺される。かれの同僚張献忠は四川省で大西国王となのる。彼は殺人狂だったが、順治帝に討伐された。

 混乱の時期にあらわれたのが中国人と日本人田川氏との合いの子鄭成功である。彼は明から姓を賜ったため国姓爺として明に忠誠を近い、オランダ人を追い出して台湾を占領する。彼を含めた日本海賊、倭寇は、明の海禁令に抵抗して密貿易をおこなう大集団だった。

 ――……闇市が官憲の弾圧を受け、その財貨が没収され、その商人が殺されたり投獄されたりしたから、怒ったのはその仲間である。むこう見ずで勇敢な日本人を加勢にたのみ、日本人の侵入だぞと呼号して、中国沿岸を荒らしまわった。ゆえにその中心勢力は中国人であるにもかかわらず、もっぱら倭寇、日本海賊という名で呼びならわされている。

 中国は自給自足が可能なので、本来貿易の必要がない。中国王朝が貿易を行うのは四海同胞への慈悲であり、それが朝貢貿易という形をとる。また当時は武力がすべての時代だったので、開国は侵略の危機をはらんでいた。

 辮髪令には、清朝にくだった漢軍の外観を満州八旗と区別のつかぬようにするという意義もあった。満州軍は少数精鋭なので、奥地を平定する際に数の少なさで侮られてはならないからだ。

 摂政王、順治帝、つづく康熙帝のとき、広東・福建・雲南の三藩が呉三桂により反乱をおこすが、平定される。大陸を征するなら中途半端は認められない。

 「太宗のとき、八旗を分かって満州八旗と蒙古八旗とし、さらに中国人を独立させて漢軍八旗とし、あわせて二十四旗、約十数万人の常備軍を編成するにいたった」。

 雍正帝の話は既に読んだが、巨大な王宮では、君主の敵はまず身内である。雍正帝兄弟の悲劇は、満州族が中国王朝のしきたりに適応するために避けられないことだった。「太子密建の法」は遺言によって後継者を指名する規則だが、「この制度によって、清朝には他の王朝に見られたような暗愚な天子が出現することがなかったともいわれる」。

 派手とは縁遠い雍正帝は、残念ながら本国では一般の人気がないという。

 

 ネルチンスク条約により清朝とピョートル一世のロシアは国境線を画定する。清朝にいたって中華はようやく北方領土を治めることができた。ロシアは清の皇帝には三跪九叩頭の礼をもって拝した。以後一七〇年の平和がつづく。

 康熙帝雍正帝乾隆帝の三代にわたり征西がおこなわれる。天山北路は遊牧地帯、南路はタクラマカン砂漠である。ガルダン、ズンガル、チベットの討伐。将軍兆恵。

 清は善政をとろうと努めたが、攘夷思想、反満思想にたいしては厳重に対処した。このため文字の獄(筆禍)がたびたびおこった。雍正帝は、中国は民族を超えた忠義によって成り立つのだと主張した。

 ――中国人の癖として、異民族の人名にはことさらに見た感じの悪い文字をもって音訳して意趣ばらしをしようとする……中国は文字の国であるから、文字から受けた感じで好悪の念を抱くことがありうる。

 元の太祖テムジンは鉄木真、フビライは忽必烈、など。やはり中国は漢字の国、針葉樹林でなく漢字の群生する地帯である。

 攘夷思想を西洋人に向けた結果、自滅を招くことになる。

 鎖国令は上から押し付けられたものだったので、日本の民間人は蘭学はじめ西洋の文物を積極的に取り入れた。一方中国は伝統的に閉鎖的な国民性なので、古くからの交渉にもかかわらず吸収は滞った。

 康熙帝マテオ・リッチら宣教師を重宝したが、雍正帝の代になるとヨーロッパ本土での宗教問題によって天主教は禁じられてしまう。またキリスト教にもイスラム教にも与さない第三の文明として、中国が注目された。教会権力を嫌ったヴォルテール自由主義者には中国を神聖化する傾向があった。

 清代に栄えたのは蘇州と揚州である。北京は政治と軍事の中心地にすぎなかったが、蘇州は文化の中心地として一〇〇万を超える人口を誇った。揚州は政府の専売塩が集まるところで、清末に塩密売が蔓延すると衰退した。これに代わって栄えたのが広州である。

 自由貿易を拒否されたイギリスはアヘン作戦を開始する。

 栄華を極めた乾隆帝の世も、晩年は翳りを見せた。白蓮教徒(秘密結社)の乱や、正貨の流出など、次代の嘉慶帝は散々悩まされる。清朝は勢いよく崩れていく。

 

 革命の国たる中国では盗掘されない天子の墓はない。されたくなければ副葬品をやめればいいのである、と宮崎は言う。

中国文明の歴史〈9〉清帝国の繁栄 (中公文庫)

中国文明の歴史〈9〉清帝国の繁栄 (中公文庫)