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the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『戦争の起源』アーサー・フェリル

 古代史における戦争形態の変遷をたどる本。図も入っており読みやすい。

 この本曰く古代戦の技術を結集したのがアレクサンドロス大王軍でありまた彼が近代戦の基礎を築いたという。ナポレオンとアレクサンドロスとの距離はそう遠くない。

 

 第一章 先史時代の戦争

 戦争とは陣形と規律である。組織化された群衆を用いることを戦争という。この集団行動の形態は旧石器時代末期からはじまり、さらに発展させたのがペルシア、エジプトなど中近東の文明、および遅れてやってきたギリシア文明だった。

 「人間は組織的な陣形を組めば素手で相手を殺すことができる」。

 新石器時代の壁画を見ると、彼らがすでに縦隊、横隊を発明し、包囲攻撃を行っていたことがわかる。この時代の武器は槍、弓、手斧、そして投石器だった。投石器はこぶし大の石で敵の骨を砕くことができ、ローマ軍も正規の投石部隊をもっていたという。また槌矛(メイス)も用いられた。掘割と城壁、塔をもつエリコや、家が密集し屋根から出入りするチャタル・ヒュユクの遺跡は、軍事目的にかなうように設計されている。

 

 第二章 古代近東の戦争

 前四世紀にアレクサンドロス大王軍は征服をおこなった。彼を支える騎馬隊、包囲攻撃、散兵、兵站組織を確立したのは、かつて広大な土地を治めたペルシアだった。ペルシアに比べればギリシアは立ち遅れていた。

 エジプト古王朝、メソポタミアの国家などはすべて軍国主義化した。戦車が用いられたのはメソポタミアである。銅、青銅の発明により甲冑や刀剣が生まれた。文明が誕生してから、数万人単位の戦争がおこなわれるようになったが、この形態は近代に至るまでほとんど変わらない。

 エジプト古王国が防護要塞に重点を置いたのにたいし、中王国、そしてヒクソスの支配を経た新王国は攻撃に重点を置いた。新王国では機動力と攻撃力を重視し、たびたびシナイ半島メソポタミアに進軍した。新王国によるメギドの戦い、カデシュの戦いの用兵は、ワーテルローと比較しても遜色がないと著者は考える。

 

 天然の要塞に囲まれ、競合都市国家の少なかったエジプトにくらべ、メソポタミアは戦争が絶えなかった。土師、ユダヤ王国時代の戦いは聖書に記録されている。サウル、ダビデはゲリラ戦術を用いてペリシテ人、カナン人、モアブ人を打ち破った。エルサレムを手に入れたソロモンの代からは、大規模な正規軍による軍備をおこなった。やがてアッシリアとペルシアがやってくる。

 

 第三章 アッシリアとペルシア――鉄の時代

 メソポタミアは古来群雄割拠の地である。前九〇〇年、アッシリアが帝国を築き上げるまでに、「メソポタミアが単一の強力な指導者のもとに統一されたのはたった二度、……最初は前二四世紀にサルゴン一世下のアッカド人によって、またのちには前十八世紀に有名な立法者ハンムラビ王治下のバビロニア」のみだった。ティグラト・ピレセル一世のときアッシリアメソポタミアを統一したが、間もなく衰退する。

 アッシリアは鉄器の軍隊を以って広大な土地を征服した。アッシュール・ナジルパル二世、その子シャルマネセル三世、ティグラト・ピレセル三世、サルゴン二世、センナケリブ、エサルハドン、アッシュールバニパルの最盛期。

 大量の異民族および国境を守るためにアッシリアは恐怖政治を布いた。彫刻には反乱鎮圧の凄惨な図像が彫られている。軍隊は騎兵を用い、馬の調達力にもすぐれていた。しかしもっともよく使われたのは四人乗り戦車である。騎兵、攻城機や破城鎚による攻囲戦、規律正しい軍隊、山岳でも平地でも変わらぬ力を発揮する歩兵、これらがアッシリアの統治を可能にした最強の陸上戦力である。

 しかしアッシリアは、エジプト侵攻による消耗が原因となり、バビロニアの独立を許し、ペルシアのメディアに亡ぼされる。

 アッシリアは歴史上でも類を見ない鉄器と流血の帝国である。アッシリアに焦点をあてた本が少ないのが残念だ。

 ペルシアの軍隊で特筆すべきは騎馬隊と軍船である。機関銃が発明されるまで騎馬隊は最強の突撃兵器の役割を果たすことになる。また、史上はじめて大規模な海軍をもったのもペルシアである。三段オール船の建造はフェニキア人に委託していた。ペルシア軍がアッシリア軍に及ばなかったのは、異民族の混交していたこと、ギリシアのような重装歩兵隊がなかったことによる。これらすべてを統合したのがフィリッポスとアレクサンドロスである。

 

 第四章 古典期ギリシアの戦争

 ギリシアは暗黒時代を経て、戦闘技術においては近東文明に大きくひきはなされてしまった。やがて古典期に用いられたのが装甲歩兵密集方陣である。八列横隊が甲冑と盾、槍で武装してにじりよる戦いがおこなわれた。このころのギリシアには散兵や騎兵がなかったのでこうした速度の遅い兵隊が通用した。近東の帝国から離れていた分、文化は独自の発展を見せたが軍事的には劣っていた。

 突撃、正面衝突だけで戦争がおこなわれることはめったにない。

 「一般に両軍の正面衝突がない理由は簡単である――戦闘のさなかに人間が恐怖心にとらわれるからだ。兵士の本能は逃げることにある」。

 このために軍国主義思想の普及と厳格な訓練がおこなわれた。

 ――ギリシアの軍隊は、横列と縦列との緊密な連携、楯と突撃用の槍の効果的な使用に依存するところがきわめて大きかったので訓練は徹底的だった。

 

 ギリシア史における二つの戦いとは、ペルシア戦争ペロポネソス戦争である。前者はヘロドトスが、アテナイとスパルタの戦いである後者はトゥキディデスが著作を残している。

 マラトン湾に停泊したダレイオスの軍隊は、アテナイの装甲歩兵に撃退された。十年後、クセルクセスが陸海共同二〇万人の大軍で侵攻をおこなう。テルモピュライの戦いでスパルタ王レオニダスは玉砕する。アルテミシオンの海戦でもギリシア海軍は敗れる。

 事前に避難の済んでいたアテナイは焼き払われ、やがて有名なサラミスの海戦がはじまる。ここでギリシア海軍は地の利を生かしてペルシアの大艦隊をやぶり、プラタイアイの戦いではペルシア将軍マルドニオスを投石で殺し撤退させる。あらゆる点でギリシアを上回っていたペルシア軍が敗れたのは、彼らが自信過剰と軽率によって誤りを招いたからだとフェリルは指摘する。勝敗はあくまでも戦場で決まるものだ。

 ペロポネソス戦争アテナイとスパルタ筆頭ペロポネソス同盟の戦争である。スパルタにペルシアがついてアテナイは敗北した。ギリシアは軍事技術においては停滞したままだった。密集軍から発展することができず、兵站や築城は未熟の域を出なかった。

 

 第五章 軍事革命

 ギリシア北部のマケドニアにおいて軍事革命がおこり、アレクサンドロスはインド、ヒュダスペスの戦いでポロス王の大軍を打ち破る。ペルシア内戦のとき、ギリシア傭兵は王弟キュロスの死によってアジアの奥地に取り残される。彼らは無敵の強さを誇ったが、兵站に欠けていた。このとき見事帰還をはたしたのがクセノフォンであり、後に『アナバシス』などの兵書を著しギリシア軍事革命に大きな影響を与えた。

 テーバイのエパメイノンダスを最後に、装甲歩兵の時代はおわる。戦争の複雑化、知的活動化にともない専門の指揮官、司令官の職が誕生する。傭兵は優れた軍人として活躍し、おもに散兵(弓兵、投石兵)に用いられた。

 マケドニア軍は糧食を兵隊各自に持たせ、行軍速度を上げることによって迅速な作戦を可能にした。ナポレオン軍と同じく彼らはその場その場で食糧を調達した。これはペルシアなど古代近東の伝統をさらに発展させたものである。

 

 第七章 アレクサンドロス大王と近代戦の起源

 アレクサンドロスは西洋が生んだ稀有な英雄である。現代の小学生も、ナポレオンもカエサルも彼を崇拝する。英雄を攻撃することにかけては並ぶもののない歴史家でさえ、彼の軍事的才能は認めざるをえない。彼の業績は古代近東の統合軍とギリシア世界の重装歩兵を融合させた点、また槌と鉄床戦術を編み出した点にある。

 ――最も卓越した将軍たちは軍事理論に通じてはいたが、それに縛られなかった……

 アレクサンドロスの軌跡……グラニコスイッソス、ティルス包囲、ガウガメラの戦い、ここでマケドニア軍はペルシア王都スサ、バビロン、ペルセポリスを占領し、ペルシア王ダレイオスはイラン北東の貴族に殺されてしまう。その後インドのポロス王とヒュダスペスで戦い、勝利してからはこの王と親交を結ぶ。

 マケドニア軍がワーテルローを戦ったとしても、ウェリントンと対等に戦うことができただろう。アレクサンドロスとナポレオンまでは、軍事技術にそれほどの差はないとフェリルは考える。

戦争の起源―石器時代からアレクサンドロスにいたる戦争の古代史

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