うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『中央アジアの歴史』間野英二

 中央アジアの歴史入門としてはおそらく最適と思われる本。

 

 中央アジアという語は、東のゴビ砂漠、西のカスピ海、南のコペト・ダウ、ヒンドゥー・クシュ、崑崙の山々、北のアルタイ山脈とカザーフ高原にかこまれた横長の長方形区域を指す。中央アジア史は南北の歴史である。南のオアシス地帯では農耕が、北草原地帯と山間牧地では遊牧が営まれた。

 遊牧民の財産は馬をはじめとする、群をつくる有蹄類である。

遊牧民は、これらの動物とともに、普通、夏の居住地と冬の居住地の間を定期的に往復して生活する」。

 住居は持ち運びテントだ。馬などからとれる乳製品を主食にしていた。

 このような生活様式の起源は南オアシス地帯を出た農耕民族にはじまるのではないかという説もあるが確定はしていない。

 紀元前五、六世紀、古代オリエントから鉄器文化を学んで西方へ進出したのがスキタイである。中国名月氏アッシリア語のスクジャを写したものであり、つまりイラン系のスキタイである。

 ところがモンゴリアに出現した匈奴はアルタイ系(モンゴル語またはトルコ語)だった。匈奴月氏を西に追いやるがやがて分裂し、その一部はアッティラひきいるフン族となって五世紀のヨーロッパに出現した。

 遊牧国家の興亡はめまぐるしい。匈奴につづいて鮮卑があらわれ、彼らは南下すると五胡十六国時代をおこす。次に高車というトルコ系の下からモンゴル系の柔然(蠕蠕)が独立する。高車は中央アジアに西走し高車王国をたてる。この二つを併呑したのが突厥(チュルク、トルコ)である。突厥はトルコ民族の支配者であり、他のトルコ民族をオグズ、チュルギシュ、キルギスなどと呼んだ。六世紀に東突厥と西突厥に分裂する。弱体化をついて支配下にあったウイグル人が台頭する。ここに北からキルギスがやってくる。ウイグルの崩壊からチンギス・ハンまで、中央アジアを統一する騎馬民族はあらわれなかった。

 君主は匈奴鮮卑では単于柔然以後はハガン(ハーン)と呼ばれるがこれは特定の氏族から選出されるもので、「匈奴の場合は虚連題氏、突厥の場合は阿史那氏、ウイグルの場合はヤグラカル氏、そしてモンゴル時代以降は、常にボルジギン氏であった」。

 家族が集まり氏族が、氏族が集まると部族が、諸部族が集まって国家となる。

「このような基本構造を持った遊牧国家では、各遊牧部族は、また同時に、その国家の軍隊を構成するもっとも重要な単位となった」。

 部族の規模に準じて十人隊、百人隊、千人隊、万人隊が組織される。

 ――このような、兵と民との完全な一致が、遊牧国家の軍事的エネルギーの根源であった。

 彼らは建築や美術工芸を残さなかった。彼らの文化は生活文化であり、ズボンや乳製品は今でも受け継がれている。彼らはシャーマニズムを信仰した。彼らは君主をフェルトでもちあげ、みこしのようにかつぎまわった。これは精霊を新しい君主の体内に入れるという意味を持っていた。イスラム教に改宗してからもシャーマニズムは根強くのこった。

 文字使用は突厥がソグド人のソグド語を借用したときからはじまる。やがて自分たちの突厥文字、ルーン文字を生み出す。チンギス・ハンのとき用いられたウイグル文字が発展して、現在のモンゴル文字に至る。しかし文字を使う遊牧民族は一部である。口承によって英雄叙事詩が語りつがれた。

 オアシス社会はおもに河川の近辺につくられた。カブール、カンダハル、フェルガーナ、サマルカンド、主だった都市はほとんどオアシスである。

 「オアシスが時に砂漠につくられた人工の島と呼ばれるのは、その故であり、現在も中央アジアの砂漠に残る多くの廃墟は、人間と自然との戦いにおいて、人間が敗れた戦いの記録であるといえるであろう」。

 現在オアシス地帯にはウイグル人ウズベク人、カザーフ人、トルクメン人、キルギス人、カラ・カルパク人が住んでいて「トルキスタン」と呼ばれているが、彼らがやってきたのは九世紀後半以降である。それ以前は印欧語を話すアーリア人がいた。紀元前一世紀後半、プルシャプラ(現在のペシャワール)を都としてクシャーン朝がおこり、カニシカ王のとき最盛期となったが三世紀にササン朝に吸収された。

 統一王朝がつくられた例はあまりなく、オアシス連合体が中心だった。オアシス城郭都市は強固な砦をもち、そのなかに市街地をつくった。中が一杯になるとさらに大きい砦を囲み、そこに市街地を発展させた。都市は大きくても人口十万~十五万程度だった。宗教は仏教、ゾロアスター教マニ教ネストリウス派と多彩である。

 ――有名なシルク・ロードの貿易は、オアシスの経済生活のなかに入ってくるというよりは、オアシスを通過する贅沢品の長距離貿易であった……

 

 屈服と共存

 オアシス地帯はつねに遊牧民の支配下におかれた。まずハカマーニシュ朝ペルシャ、つづいてアレクサンドロス大王マケドニアギリシャ植民の統治するバクトリアその後月氏匈奴の支配下に入る。前漢武帝が張騫を派遣して以降、「オアシスの定住民たちは、従来の北方の遊牧民と、西方の西アジアの諸勢力に加え、東方の中国人という、北・西・東の三方面からの異民族の侵略に直面せざるを得なくなる」。もっとも中国は八世紀タラス河畔の戦いでアラブ人に完敗してからは西域経営から手を引いた。アラブもアッバース朝崩壊以後は来なくなり、北方民族が交渉相手として残る。

 五、六世紀には詳細不明の遊牧民族エフタルが君臨する。これを亡ぼした突厥のうち西突厥がオアシスを支配した。彼らは辮髪はじめとするトルコの習俗を強制させたが、やがて唐王朝に撃退される。

 ――確固たる軍事組織と、最高の機動力、それに国民皆兵的体制をそなえた遊牧民の社会が、軍事的にオアシス社会に優越したのは当然であった。

 遊牧国家とオアシス国家はまた共存関係をも結んでいる。東西貿易の要衝サマルカンドにはソグド商人たちがいたが、彼らは遊牧民の武装を利用して貿易を独占した。

 殺伐とした国家としてプロイセン、日本、アッシリアなどとも共通の印象がある。

 戦いの国が騎馬民族の国である。

 

 トルコ化とイスラム

 九世紀、ウイグルが四散する頃から、遊牧国家のトルコ化、イスラム化が進む。彼らは定住を始め、トルコ語をしゃべり、イスラム法に基づく社会をつくっていく。「タリム盆地東部のウイグル人たちは、少なくとも一〇世紀の前半には、アルスラン・ハーン、つまり「獅子王」という称号をその王号の一部に持つ君主をいただ」いていた。トルコ語の一種ウイグル語はじきにアラビア文字で書かれるようになる。

 サーマーン朝がガーズィーとよばれるムスリム国境警備隊をつくると、遊牧民族はパミール以西のオアシスに進出不可となった。首都ブハラ、彼らはペルシア文明の復興をかかげていた。君主はタシケントやサイラムに奴隷市場を常設し、国家事業としてトルコ人奴隷の貿易をおこなった。有能の声高かったトルコ人奴隷はやがてアッバース朝カリフの周辺まで勢力をのばし国政を牛耳るようになる。アフガニスタンガズナ朝はトルコ人奴隷アルプ・ティギンとセビュク・ティギンによって建設された。
九九九年、カラ・ハーン朝の征西によりサーマーン朝は亡びる。これはもとより地方分権的性格の濃かったためすぐに分裂して亡ぼされる。しかしこの王朝がパミール以西へのトルコ人の移住を促進し、トルコ化を進行させたのは疑いない。

 一四世紀、ティムールの現われる頃にはトルコ語、トルコ文字が定着していた。

 イスラム化するということは、社会形態も変化するといことである。本格的なイスラム化はウマイヤ朝の驍将クタイバ・イブン・ムスリムの遠征からだ。イスラム化した民族は異教徒に襲いかかった。

 しかし厳密な意味でイスラム化したのはオアシス地帯だけだろう、なぜならイスラム教は都市の宗教であり各種施設がなければ完全には成り立たぬものだからである。モグールとはトルコ・イスラム化したモンゴル人のこと。

 仏教圏ウイグルもやがてトルコ・イスラム化する。ここにさらにイランの影響も伝わった。なぜ彼ら遊牧民が定住化に馴染んだのかはまだ研究中という。

 

 ティムール帝国の盛衰

 耶律大石(やりつたいせき)率いるキタイ人の遼王朝が金に亡ぼされると、彼らは「一一三二年、突如その姿を中央アジアに現した」。これが大征服をおこないカラ・キタイ朝または西遼をたてた。文化は中国風だった。同時期ホラズム地方にホラズム・シャー朝がおこる。またモンゴリアではチンギス・ハーンが勃興しつつあり、ウイグル王国はカラ・キタイを見切ってモンゴルに臣従をちかう。

 モンゴルが金を亡ぼしたので、ホラズム・シャーの君主ムハンマドチンギス・ハーンと使節交換し互いの支配権を承認する。ところが一二一八年、ハーンの派遣したムスリム商人がオトラルの太守に虐殺される。このオトラル事件をきっかけにハーンは激怒しモンゴル軍の征西がはじまる。

 将軍ジュペの二万軍、チンギス・ハーンは十五万の軍を次男チャガタイ、三男オゴタイに分かち侵攻する。長男ジョチ。

 ――オトラルは、数ヶ月の包囲の後に陥落し、オトラル事件の責任者であった太守イナルチュクも捕えられ、のちサマルカンドでその目と耳に溶けた銀を流し込まれて虐殺された。

 「実に七年にわたる大遠征であり、この遠征によって数十の都市が破壊され、数百万に及ぶ人びとが殺害されたという」。

 モンゴル人はムスリム人頭税を課したため、一時は反乱も起こったが鎮圧された。チャガタイは与えられた所領には関心をもたず遊牧をつづけていた。お家騒動がもちあがり、四代ハーンのムンケはオゴタイ家、チャガタイ家を殺害・追放した。ムンケが死ぬとまたもアリク・ブケの乱、ハイドゥの乱と後継者争いがおこる。

 フビライは中国の、アリク・ブケはモンゴリアの大ハーンとなる。アリク・ブケの乱は、彼がフビライに降伏するまでつづく。延々とつづく内紛のあいだにモンゴル人はイスラム化していく。この過程で「チャガタイ・汗国の王族・遊牧民の間には、遊牧派と定住派、非イスラム派とイスラム派という主義を異にする二つのグループが誕生し、両派は、それぞれハーンを擁立して互いに争うようになってくる」。

 遊牧派がモグーリスタン=汗国、定住派がチャガタイ=汗国。モグーリスタン=汗国からやがてティムールが誕生する。ベンの言葉「チンギス・ハンの征服になにか歴史的意義があるだろうか」という言葉に納得する。騎馬軍団の暴走、殺戮、つづいてお家騒動と節操がない。

 ティムール帝国中央アジア史上例を見ぬ稀有の出来事だった。彼は賎しい生まれだったので終生ハーンを名乗ることはなかった。「アミール・サーヒブ・キラーン」という呼び名は「幸運な二星のよって生れた支配者」という意味だ。

 直轄地マー・ワラー・アンナフルを中心に遠征をつづけ、「フェルガナ、アフガニスタン、ホラサーン、アゼルバイジャンの四大直接支配地と、小アジア、エジプト、シリア、南ロシア、アルメニア、ジョルジア、シールワーン、北インド、モグーリスタンなどの広大な間接支配地域」を手に入れた。これもモンゴル的に遂行された。首都サマルカンドの復興にティムールは尽力した。

 ティムール軍団は都の周辺に無数のテントをたてて野営しており、遠征になると伝統的な氏族単位の軍隊を編成して出発した。また都市の経済力をバックにつけた点で、終生草原の民だったチンギス・ハンとは違っていた。トルコ・イスラム化しながらも遊牧民の性質を残していたチャガタイ人、都市の経済力と遊牧民の機動力を兼ね備えた彼らによって大帝国は築かれた。

 ティムールが死ぬとさっそく分裂の兆候をみせはじめ、帝国領土を束ねて統治できたのは三代シャー・ルフと七代アブー・サイードのみだった。この間の内紛により宗主権を次々と失っていき、一五〇〇年初頭、ウズベク人シャイマニー・ハンにより亡ぼされる。ティムールの五代孫バーブルはインドに落ち延びてムガル朝ティムール朝)をたてる。

 遊牧国家の分裂傾向は、彼らの分封制度に由来する。息子たちは所領を与えられるとひとつの小王国、小宮廷を形成し、王位継承の際には各自が権利を主張した。

 

 変貌する中央アジア

 カザクとは冒険者の意、これがカザフ族の由来となった。十五世紀中葉から西モンゴリアのオイラートが活発化し、十七世紀初頭ジュンガル王国をたて、ガルダンの統治時代にセミレチエ、タシケント、サイラムを占領する。しかし遊牧社会は停滞し、軍事技術も立ち遅れがひどくなった。やがてロシアの南進によってカザフ、ウズベクトルクメンはロシア領となり、ウイグル清朝の征服により新疆となった。

 ロシア倒壊のとき一時的に独立政府が建設されるが赤軍によって破られ、社会主義国として再建される。

 

中央アジアの歴史 (講談社現代新書 458 新書東洋史 8)

中央アジアの歴史 (講談社現代新書 458 新書東洋史 8)