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うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『レイテ戦記』大岡昇平 その2

 意外なことに大岡は特攻隊を作戦の面からも称賛している。

 「神風特攻は敵もほめる行動である」。

 レイテ沖海戦から特攻は開始されたが沖縄戦のときには命中率は7%まで低下していた。

 

 ――自分の命を捧げれば、祖国を救うことが出来ると信じられればまだしもだが、沖縄戦の段階では、それが信じられなくなっていた。そして実際特攻士は正しかったのである。

 一九四五年の時点で日本の勝利を信じる軍人は一人もいなかった。

 「……悠久の大義の美名の下に、若者に無益な死を強いたところに、神風特攻の最も醜悪な部分があると思われる」。

 大岡はこの醜悪な部分と、意志の力によって特攻を成し遂げた若者の価値は別だと考えている。

 ――今日では全く消滅してしまった強い意志が、あの荒廃の中から生れる余地があったことが、われわれの希望でなければならない。

 この海戦の前から特攻兵器「桜花」、人間魚雷「回天」、特攻モーターボート「震洋」の開発が進められていた。特攻が中央によってはじめから予定されていたのではないかという説をうながすものである。

 海戦が終ったあともレイテ島米軍進撃は続いていた。日本兵の死者はどんどん増えていく。そこかしこで米軍を待ち伏せするがそのたびに処理されていく。

 「それから歩兵が前進した。それは自動小銃を腰だめで乱射しながら、一〇〇メートルの開けた野を進むという、現代戦ではとっくに見られなくなった古典的な歩兵の攻撃であった」。

 六角形の保塁に米兵は苦戦する。

 ――「日本軍の訓練は厳しく、階級の差別はひどい。兵隊は奴隷みたいなもんだ。一度義務から解放されると、彼らが極端から極端に移るのは当然なのだ。われわれの軍隊とは違うんだ」、「おれたちの方もあまり違いはないと思うがな……きみは大学を出たおかげで将校だが、おれは百姓だからただの一等兵だ。きみたちはみんなスマートで、威張らない。しかしおれたちだって、一度きみたちにも鉄砲を持たせて、日本兵の方へ押し出してやりたくなる」

 のんきな輜重隊はよく馬を連れているところを捕まった。

 十一月一日、リモン峠保守のため方面軍から派遣された第一師団がオルモックに上陸する。「明治四年東京鎮台として創設、近衛師団と共に、明治政権の支柱となった歴史を持つ、いわゆる「頭号指弾」である」。ところが二・ニ六の不祥事でソ満国境に移駐して以来士気はぐだぐだになっていた。

 ウィーバーに代わってリモン峠攻略指揮官に抜擢されたヴァーベックVerbeck大佐は、明治時代の宣教師フルベッキの子孫である。終戦後敵司令官片岡中将と面会し親交を結んだ。

 お互いに苦戦し泥沼にはまる。守備側の日本兵は火炎放射器で焼きはらわれた。米軍もオルモック港から日本軍に上陸され、リモン峠は奪えず、計算ちがいに悩んだ。新たな作戦命令が出され十九連隊第二大隊と三四連隊第一大隊が迂回行動をとる。

 「もし私がアメリカ人なら、この二つの迂回部隊の行動について、叙事詩的放浪戦記が書けるのだが、そのため悲惨な死を死ななければならなかった同胞がいるため、それが出来ない」。

 この部隊によってリモン峠守備隊は孤立させられていく。

 ――日本将校がしばしば命令書の写しと地図を携行し、認識票から階級氏名を消さずに前線に出ることを米軍は嘲笑している。そのため将校が戦死すれば、必ず情報が手に入る……もっとも米軍の方でも、戦況と部隊行動を新聞記者に語り、サンフランシスコから生放送させるという呑気さであった。

 山下司令官と寺内や武藤章ら参謀とのあいだで意見が食い違う。レイテ島決戦は失敗になりつつあった。輸送船により兵を上陸させる多号作戦は失敗した。ジャン・ヴァルティン『昨日の子供たち』。

 参謀たちはレイテにかけつける。ダガミの町を退いた各師団は脊梁山脈、現地の名で「ブラウエン山」という連峰を守備位置に定める。ダガミの十六師団は崩壊し組織的抵抗はおわる。しかし「歩兵というものは、何度破られても、それが存在する限り、依然戦力なのである」。

 「死の谷」リモン峠争奪戦はつづく。一回の小戦闘で日本軍は数十名の死亡、もしくは玉砕するまで居座るのに対し、米軍は一桁の犠牲者を出すとすぐに引き返し補充する。米軍物量軍隊によって徐々に日本軍は消耗していく。お互いに飢えに苦しんでいて、レーション投下には日本兵もかけつけてくる。まぼろしのワニに食われた米兵。

 「攻撃命令を出しておいて、ちょうどよい防禦になる」、中国戦線でも使われた劣勢戦術の定石で、「前線部隊の闘志に対する不信感から、後方で形成された通念なのであった」。戦力の充実していた日露戦争期には考えられぬことだったとのこと。

 レイテ川を渡る米第二大隊主力と第三大隊K中隊、これを迎えて「突貫攻撃」を開始する揚田大佐第一大隊、「これはリモン峠の戦いで最大の激戦となった」。この日、米軍の戦死一四九八、日本軍戦死三四七三。

 原口山の由来となった原口大尉は温厚寡黙、声だけ大きい当時の軍人とは異なっていた。彼のような堅実な型に優秀な軍人は多かった。

 

 峠をまもる片岡師団長の見解を土居参謀は友近少将に伝える。意見具申は弱音ととられ、友近少将はいやな顔をする。

 ――そしてこれは相手が友近少将ならずとも、一般に軍隊の常識として当然といえる。師団のような大きな単位ではなくとも、重機陣地の一つでも、その長は決して援兵を要求したり、退却の許可を求めたりしてはならないのが、日本の軍隊の常識である。

 リモン峠の第一師団は「破断界」(物理学用語、圧力に耐えられず突然壊れる限界)にある。友近少将は防禦がわりに攻撃を命じるが、精鋭なれども実戦経験のなかった第一師団は馬鹿正直にこれを実行し玉砕に近づく。遺族への配慮から戦後このことは隠された。

 日露戦争までの勝利でおごったため、日本軍の構造は形骸化した旧ドイツ軍式にとどまっていた。軍団(二個師団)編成ではなく師団編成で、重砲も少なかった。明治政府の陸軍をつくりあげたのはモルトケの弟子メッケルだった。この軍隊がレイテのたたかいまで残っていた。

 

 ――リモン峠で戦った第一師団の歩兵は、栗田艦隊の水兵と同じく、日本の歴史自身と戦っていたのである。

 二六師団と米軍の激戦、ダムラアンの戦い。負け続きで申し訳なくおもった鈴木宗作参謀は自ら陣頭に立ちレイテ作戦を決行する。高砂族を用いた薫空挺団。

 天号作戦に使われた高千穂挺進団は最新鋭の装備をもっていた。中央工業株式会社設計の口径8ミリ一〇〇式短機関銃、九九式七・七ミリ軽機関銃、これらみな軍事技術家の苦心の成果で、「米兵はこの銃の優秀性を知っていて、降下隊を見ると逃げたという」。

 ブラウエン地区の米軍は、日本軍の組織的抵抗は終わったものと油断していた。十六師団の「和号作戦」と挺進団の「天号作戦」が決行され、米軍は不意をつかれた。
オルモック湾の小戦闘で駆逐艦「竹」「桑」は米駆逐艦一隻を沈め遁走させる。このとき「クーパー」を撃沈させた酸素魚雷が最後の命中弾となった。

 石腸隊、鉄心隊、万朶隊、一宇隊らの特攻がはじまる。ここには内地の教官も参加していた。搭乗員佐々木友次は名パイロットで爆弾を的中させて何度も出撃し、結局送還まで生き延びた。爆撃機呑龍は速度の遅さから鈍龍と揶揄されていた。

 ――海軍よりおくれてスタートした焦りからか、陸軍の特攻の戦果報告はいつも途方もなく水増しされているのだが、特攻機二四機で三七隻の艦船を撃沈破は少し乱暴である。

レイテ戦記 (中巻) (中公文庫)

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