うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『アジア史論』宮崎市定 その2

 東洋的近世続き

 軍隊は禁軍、近衛兵と呼ばれ政府と別に天子が直接指揮した。宋では禁軍は六〇万~八〇万にふくれあがり国内の要地に配備され、これは京師(帝都)の殿前司に属した。宋代からは科挙制度が用いられた。三国魏から隋までの九品中正は「門閥貴族の特権を擁護する機関」になっていたからだ。

 

 平時には文官が軍部大臣となったので軍閥の専横や反乱はおこらなかった。科挙により特権貴族はなくなった。これは「科挙」でも書いてあったことだ。

 ――結局ナショナリズムは一種の意志力であって、多少の矛盾、多少の摩擦はこれを克服してかからねばならぬ。こうして力学的に、プラス・マイナスを平均して大きなプラスが残り、多数の人力を統合するに成功した所に近世的国民が発生するのである。

 東洋においてはナショナリズムは漢字と非漢字の対立のかたちをとった。隋唐の頃の突厥、回こつ(糸乞)が漢地の民族に対抗するようになった。民族意識の昂揚には文化、とくに文字による歴史の記録が欠かせないが、彼らも突厥文字を使った。

 回コツ、つまりウイグルキルギス族に倒されると各地にちらばって影響力を行使した。ウイグルによって周辺の民族はイラン系ではなくトルコ系言語を使うようになり、またウイグルは商才にたけた民族の代名詞となった。

 宋と同時期に成立していた遼王朝は、自民族を契丹の法、漢人を漢法により統治した。

 「……宋遼対等の国交を認めたことは最も注意すべきである。平等なる国家と国家との交際、ヨーロッパの国際関係に近いものが始めて東洋において実現を見たのである」。

 強大になった女真族金王朝南宋の時代に朱子学が誕生する。「女真人は到底これを感化することの出来ぬ夷狄であって人類ではない」、こうした攘夷思想をもって生まれたのが朱子学である。

 国民主義はモンゴルによって一旦消失した。明は漢人のための王朝だった。周辺民族にたいしては朝貢による間接統治をおこなった。

 ――ところが太祖の子、成祖永楽帝の時になると、万里長城を国境としたのみでは、漢人の居住地の平和が十分に保障されぬことがわかり、出来得る限り国境を遠く前進させるという政策に変化した……明末に至って女真の間より清朝が興起したのは、実にかかる明側からの武力干渉の反動にほかならなかったのである。

 清朝東洋史上最後の大一統であり、「国民主義の奇跡」だろうと宮崎は考える。国民主義は無限の拡大をめざす。その力がこの場合は異民族に味方した。「ヨーロッパの国民主義は、元来無限の発展意欲を持つものでありながら、現実の抵抗にぶつかって、他国民との国境画定を承認せざるを得なかった」、一方この障害がなかったのが元明清の統一である。

 満州族による辮髪令はやがて伝統になり、清朝末期には西欧風の頭髪をする者を伝統に反するとしてとがめるものもあらわれた。しかし満州八旗は次第に漢化し、皇室そのものも漢化してしまった。こうして満州族国民主義は消滅してしまった。

 訓詁学からの解放としてあらわれた朱子学と、太極思想。このあたりは気だの陰陽だのの世界だ。儒教の宇宙観は『太極図説』のなかで説明されている。

 文化の遠心的作用にうちかって求心的作用が表面に現われることで大統一がなされる。

 「今後の歴史学は更に実証をもって能事了(おわ)れりとせず、大胆に評価の問題と取りくまねばならぬ」。

 蒙古の大征服は一時イスラム勢力を弱め、東西の交通をうながした。キリスト教でもイスラム教でもない、敵でも味方でもない、また野蛮人でもない中国・儒教の存在は啓蒙思想におおきな影響をあたえた。

 ――むしろ世界人類は、更に有機的な、一つの生物のごときものと見た方がより適当であるかも知れない。この生物は世界の到る所に根を張っている。一箇所で吸収した養分は直ちに他の部分に循環する。

 

 西アジア史の展望

 「イスラエル一神教とシリア人の福利主義と、ヒッチ人の面貌とが混血して出来上がったのが、現今のユダヤ人なのである」。

 元来エホバの民は金銭を忌まわしいものと考える遊牧民だった。変化がおこったのはシリアに定住してからであるという。

 アッシリアはカルデアを亡ぼしシリア、ダマスカスも征服するが、逆に経済はシリア人に牛耳られてしまった。

 アレクサンドロスは田舎者マケドニア人だった。強大な権力はギリシアではなくマケドニアに与えられた。彼はペルシアを征服するとこの文明を愛好し、バビロンに都を置いた。野蛮人とはマケドニアのほうだった。

 シリア王朝はローマのスキピオ兄弟とポンペイウスによって平定されたが、ここはやがて商工業の中心地となった。商業を牛耳るのはやはりユダヤ人だったという。やがてコンスタンティヌスの代になると都はローマからコンスタンティノポリスに移るが、このあたらしい首都とともにシリアもまた重要な都市とされた。

 ペルシアは比較的宗教に寛容だったためマニ教がおこり、またネストリウス派などの亡命先となった。「……ペルシャはかかる亡命者を収容して、商業的に繁栄を来すとともに、かえって思想的には無政府状態を現出したのであった。ここに、アラビア砂漠における、マホメット新宗教運動の勃興する契機が潜んでいたのである」。

 マホメットの教えは本来合理的理知的なもので、コーランには魔法や奇跡といったものは見られない。彼は氏族社会や貧富の差にたいして神の前の平等を説いたのだった。

 「ペルシャを征服したるアラビア人は、やがて自らペルシアの伝統、ペルシアの文明の前に屈服せねばならなかった」。

 膨張するアラビア帝国はイベリアの西ゴート王国を亡ぼした。

 中東は十字軍に蒙古と散々な目にあってしまうがこれを宮崎はつぎのように説明している。

 ――彼らの社会が従来世界における富貴と栄耀の中心であったことすなわち彼ら不幸の原因であったのだ。彼らの社会は他の世界に先んじて生活の快楽と幸福とを享受し来たった……不幸なる隣人を有する者は、彼自身不幸なるよりもさらに不幸なる目に遇うものだ。一個の閉ざされたる社会における平和の維持し難きは、一個人の閉ざされたる平和の維持し難きと同断である。これは倫理でもなく、道徳でもなく、ただ歴史が教うる現実なのである。

 剣かコーランか、棍棒かバイブルかの時代に、「無色透明な人類」モンゴル人がやってきた。彼らはシャーマンを信仰していたが他民族の信仰にはまったく関心をもたなかった。

 「彼らは軍事上には最も恐るべき敵手たると同時に、宗教上には最も寛大なる征服者であったのである」。

 一時アジアとヨーロッパの宗教対立は解消した。

 

 キプチャク汗国はイスラム教に、イル汗国はキリスト教からイスラム教に改宗した。第二の蒙古英雄チムールの時代には、トルコ人が団結しつつあった。オスマン帝国は中東最後の大一統となった。一方エジプトのアイユーブ朝マムルーク朝はイギリスに支配される。

 ペルシアとシーアを受け継ぐイラン、西欧化したトルコ、そして純粋なアラビア人を所有するサウジ、宮崎はサウジこそ中近東の盟主となるだろうと予測する。

 

 東洋史の上の日本

 ――私は歴史を叙述することから離れて、ただ理論だけを述べる方法を知らない人間である。

 「要するにそれ(歴史学)は人生観を打ちたて、また既存の人生観を検討するのに役立つのであって、明日の行動を命令するような性急な即効剤にはならないのである。そして、人生観はすなわちその人の歴史観にほかならない……下らぬ政策や実践はない方がいい。何もせず昼寝をしていてもらった方がよっぽど有難いことがある」。

 歴史を眺めつづけた人間は力の大きさと個人の小ささを知っている。しかし人間の尊厳もまた認めている。ベンもミラーもユンガーも機械歯車に抵抗した。彼らをあわれな虫けらとよぶ人間はいないだろう。

 ターミナル、文明の終着点としての日本。近代化以降は欧州勢力のアジア進出基地となった。

 「しかし日本人の自己評価がわずかの時間に、こんなに激しく上がり下がりするのは決して健康な状態ではない。世間を知らない田舎者がよく陥る心理状態である。対世間との関係において、自己に対する評価が安住の地を見出し得ないことから起こる現象である」。

アジア史論 (中公クラシックス)

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