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『アジア史論』宮崎市定 その1

 いくつかの評論の寄せ集め。

 

 世界史序説

 これは『アジア史概説』にも関連する内容である。宮崎はユーラシアを東アジア、西アジア、ヨーロッパに分割する。インドは独立した地域ではあるが他地域との交流が薄いため省略するとのこと。

 古代における大一統はまずダレイオスのペルシア、つぎにカエサルのローマ、さいごに始皇帝の秦という順でやってくる。ペルシアと秦の統治方式には多く類似がみられる。

 古代は表面的な大一統を遂げたがその内部にはさまざまな矛盾があったためやがて破裂してしまった。ここから中世がはじまる。中世はよく暗黒時代といわれるがそれは一面的である。この時代区分の特徴は荘園化と分裂で、自作農は消えて農奴が増えた。

 近世は西アジアイスラム帝国からはじまったと宮崎は考える。中国では唐代から儒仏道の復興がおこなわれ、宋代には朱子学が誕生した。宋の文化の発達には注目すべきものがある。

 また宋代は民族意識の生まれた時代でもあり、周辺の異民族もそれぞれの国家をつくった。

 「その代表的なるは蒙古系の遼、満州系の金、西蔵系党項族の西夏などである」。

 やがてモンゴルが東アジア、西アジアを統一することになる。この東アジア的近世に触発されておこったのが遅れてきた文芸復興、ヨーロッパのルネサンスだった。第一回の蒙古来襲がモンゴル帝国だとすれば第二回はチムールであるという。

 ふつう近代といわれる産業革命からの時代はここでは最近世とされている。日本が傲慢に陥っているとき中国は世界の中での位置を検討していた。

 

 中国古代史概論

 中国では青銅器時代はほんの短いあいだしか存在せず、日本は鉄器時代からはじまった。ふつう青銅器時代に具わっている都市国家社会と戦車による戦闘が日本でおこなわれなかったのはこのためだろう。

 都市国家(ポリス)は中国ではやがて領土国家に変質し、春秋戦国時代がやってくる。

 ――古典なるものは、これを生じた当時の社会と同様、まだ未成熟であると同時に、あらゆる方向に向かって発展すべき可能性をその中に蔵している点が尊いのである。

 秦はもともと北方の異民族だった。これが西北の義渠戎を滅ぼし騎馬戦術を輸入した。もともと中国には騎馬戦術がなかったため秦は他国をつぎつぎと亡ぼしていった。

 

 六朝隋唐の社会

 漢が古代の頂点だったのにたいしその後の六朝・隋唐は中世の低迷に属する。そして唐末の混乱が中世の終焉である。それらは、一連の下降の時代としてとらえられる。唐代はとくに歴史の中でも生きにくい時代だったろうと宮崎は考える。

 漢は貨幣の問題によって不景気になった。このため荘園は対策として貨幣を死蔵し、不景気はますます進行した。漢代には吏と民のあいだに区分が生まれたがこの吏はのちの官である。吏を排出する一族が士族とよばれ特権階級となる一方、民は不完全な市民となってしまった。これもまた六朝隋唐にうけつがれる特徴であり宋代まで改善されることがない。

 

 漢における異民族の侵入……まずは軍隊に編入された異民族の暴動で代表は薫卓である。つぎに中国領内に移住していた匈奴の反乱、最後は塞外からの侵入で代表は鮮卑である。鮮卑華北を征服し北魏をうちたてた。三国から南北朝時代は住民にとっては過酷な時代だった。

 唐の過大評価について……唐はたびたび帝位簒奪にみまわれ、安史の乱黄巣の乱などがおこった。

 「この点で唐は古代帝国の頂点をなす前漢に劣ることは勿論、後漢にさえも及ばない。真に安定した実力政権は、五代を経た次の宋王朝の出現を待たなければならなかった」。

 

 東洋的近世

 東洋史と西洋史、別々の本を二冊あわせただけでは世界史は生まれない。

 「歴史学の任務は既に存在する公式に事実をあてはめてゆくことではなく、たえず新しい公式を探求してゆくことでなければならない」、質を量に変えて評価することが重要である。

 ――中国を中心とした東アジアが、その独自の文化を持ちつづけて来たのは、やはり量の威力が物を言ってきたのである。

 曰く漢字は表音文字とも表意文字ともつかぬ中途半端なもので、「中国の文化は何といっても田舎文化である」、その特徴は「頑迷な保守主義であり、固陋な尚古主義である」。

 古代・中世・近世という流れはまずヨーロッパを標準にして考えられている。ローマの統一が古代でありそこから分裂して封建主義にいたったのが中世である。この間それぞれの土地は閉鎖的な世界をつくったが宗教教育と土地開発が進んだ。やがて富裕な都市が国民主義を生み、ふたたび帝王による統一がはじまる。

 人類の文化は交通によって発達する。西域の独立国である西夏は重要な交通路上にあったため宋はこれと戦った。

 「西蔵のような大国の存在が殆ど忘れられ、雲南大理国などは殆ど無視されているにもかかわらず、西夏の名のみが史上に有名なのは、交通の重要性を遺憾なく示すものである」。

 東洋的近世は宋代からはじまった。交換経済の浸透により荘園は廃れ、運河と連結した都市が栄え、平地の開拓がすすんだ。政治都市は商業都市にかわり、分業化が進んだ。

 「人類の文化は火力の利用にはじまり、火力の高度が文化の程度に正比例するとも言いえる」。

 租庸調の制度は唐末に崩壊し、かわりに塩の専売によって政府は全収入の半分を補った。この生活必需品の専売制度は中華民国までつづくことになる。

 ――塩専売に関する法規は塩法と称せられるが、塩法こそは中国近世の帝王独裁政治を表徴するものである。

 この官の塩に対して密売をおこなうものがあらわれる。彼らは官僚を買収し、軍隊を持ち、白蓮教などとむすびつき秘密結社をつくる。この秘密結社が反乱の火種となることが多かった。これにひきずられた農民の参加によって騒乱は大規模になる。

 古来儒家の重農思想から農民に格差が生じることは否定されてきた。しかし宋にいたると「地主は単なる地主ではなく、それが大方は知識階級たる士大夫となり、一面官僚、一面地主たる支配階級が全国的に行き渡り、土地がほとんどすべてかかる新興階級の手に占められるようになって来た」。

 王朝が変わっても天子が変わるだけで内実は変わらない。

 「社会革命として発展させ得る地盤が成熟しておらず、必ず易姓革命の形でなければ政権の更迭が実現出来なかったところに、東洋社会の宿命的な伝統が働いていた」。

 貴族階級は天子が変わっても継承され、閉鎖的な猟官運動がつづく。こうした貴族は唐末期に王朝とともに衰退し、軍閥が跋扈することになる。

 宋にいたっても貴族が大きな力をもっていたようだ。君主独裁とは、「なるべく多くの機関を直接君主指揮の下に置き、あらゆる国家機能が君主一人の手によってのみ統括せらるる組織をいうのである」。

 

アジア史論 (中公クラシックス)

アジア史論 (中公クラシックス)