エジプトで宰相になったヨセフの死後ユダヤ人は繁栄する。しかしこれをよくおもわなかったエジプトの王は彼らを迫害しようとする。このときあらわれたのがモーセだった。その後彼らの子がカナンにたどり着くとサウル王、ダヴィデ王、ソロモン王とユダヤ王朝が続く。
旧約とは神との旧い契約のことを意味し、一貫して神と人間たちとの関係を描いている。神は自分に背いたときに人間を罰し、人間は神のことばに従って生きる。ここには道徳や倫理というものはない。神は人間に幸福を与えることでのみ自分の存在を証明することができる。
著者は旧約聖書とは人間の自然律とのたたかいの書であると考える。神さえも自然律に逆らうことはできない。現在はより大きな存在を無視しても生きられるが、この時代には人間とは無関係に動く世界を意識せずにはいられなかった。
聖書の物語は、神を必要とする苦難の時代と、繁栄を享受して神をおろそかにする時代との繰り返しである。反復とは同じ事をいつまでも繰り返すことだが、そこには持続がある。一方、進化というものは、バベルの塔のように最後には破滅に至る。
何かを得れば何かを失うことは普遍的である。人が増えすぎれば間引かれ、減れば増産される。
砂漠の遊牧民は狡猾でなければ生きられなかった。よって、神がそれをとがめることはない。イスラエルはエジプト、アッシリア、バビロニアに囲まれた小国にすぎなかった。しかし彼らの神は姿をもたない、完全な唯一神で、これはめずらしいものだった。どうして、この小国の神がのちに世界に広まったのだろうか。
著者は無宗教だが、非人間的な自然の運行が存在することについて、キリスト教に同意する。彼は大空襲の焼け跡をみて以来、地面だけが確固たるものでありその上にいくら都市ができようとはかないものにすぎないと考えるようになった。真の基準を知っているものは環境が激変しようともひるむことがない。
人間の歴史は自然律とのたたかいの歴史である。あらゆる小説家が個人を律する大きな存在とのたたかいを題材にしてきた。真に自由であることは無秩序を意味する。