うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『海軍と日本』池田清

 世界第三位の海軍国であった日本は終戦時に滅びた。海軍と太平洋戦争を分析すること。

 この本は日本海軍の入門である。

 

 

 Ⅰ 海軍と戦争

 マレー沖海戦において日本海軍は英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを沈めたがこれは飛行機か戦艦かという論争にもまた決着をつけたのだった。アメリカは大艦巨砲主義の時代がおわったと悟り空母の建設を急いだが日本海軍は学ばなかった。その三年後同じように大和が沈んだ。これは兵術思想の革命のみならず「日米英という三大海軍帝国の西太平洋地域における植民地再編成のための角逐」を象徴していた。

 日清戦争黄海海戦定遠鎮遠との海戦以来、海戦戦術には「艦隊決戦主義」とよばれるものがあった。東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊はバルチック艦隊に勝利した。艦隊司令長官ロジェストウェンスキー以下六千名は捕虜となる。これが日本の海軍政策を決定づけた。また英国も「ドレッドノート」の建造をはじめ、大艦巨砲主義の時代がはじまったのだ。

 日本海海戦での勝利は山本権兵衛海相らの事前準備、外交政策に大きく拠っている。

 ロシア艦隊が消滅し、日本の仮想敵はアメリカ海軍となった。日本海軍の戦略は邀撃作戦とよばれるもので、アメリカが日本近海にやってくるまでに南方で奇襲を繰り返し、漸減したところを決戦で叩くというものだった。

 ――日本海軍は、長期持久の消耗戦という第一次世界大戦の性格を学びそこねたまま、この短期決戦の方針で太平洋戦争に突入した。

 資源が少ないので精神主義で満たそうとしたがこれは失敗のもとになった。軍縮条約で航空兵力が増やされてからも巨砲神話は根強く残った。ナポレオン曰く「十年ごとに戦術を変えるのでなければ、その軍隊は良質とはいえない」。

 ゼロ戦は優れた性能をもっていたがやがて資源不足でつくれなくなった。

 「航空消耗戦と大量生産方式という近代戦のビジョンが欠落していたからにほかならない」。

 このゼロ戦もやがて米軍のグラマンF6F、「ヘルキャット」の登場により撃墜されていく。貴重な機体と熟練搭乗員が相次いで消滅した。

 なぜレイテ沖海戦で日本海軍は潰滅したのか。栗田第二艦隊司令長官の「なぞの反転」は多くの人の注目を集めている。彼の反転により作戦は失敗し、連合艦隊は消滅した。

 日本軍の士官は現代戦遂行に不可欠な「高度の平凡性」を欠いていた。彼らの理想像は近代西欧的な職業軍人ではなく古代の荒武者だった。

 真珠湾攻撃から海軍の攻撃は淡白で性急だったという。ハルゼー大将曰く「日本人は勝ったと思うと引き揚げていく。決して追撃して来はせんから心配するな」。日本海海戦における東郷と秋山真之中佐の執拗な追撃戦術は忘れられていた。

 戦時中は政府・陸軍・海軍がそれぞればらばらに動いていた。近衛や東條が改善につとめたがうまくいかなかった。陸海軍は戦争中ことあるごとに反目対立した。軍需省航空兵器総局長官遠藤三郎中将曰く「太平洋戦争はアメリカと戦っているのか、陸軍と海軍が戦争しているのか分からないほど」。この対立の理由は日露戦争後に陸軍がロシア、海軍がアメリカを仮想敵として軍備拡張を競い合ったことによる。明治二十六年海軍軍令部が独立してから対立はさらに激しくなった。

 陸軍が参謀本部を政府から独立させ天皇の直属においていたのにたいし、イギリスの制度にならっていた海軍は、海相が統括をおこなっていた。日露戦争時の軍事参議院はみなすぐれた政治意識をもっていた。

 末次信正少将や山本五十六は航空兵器の重要性に気づいていたという。だが彼らを含めた将官たちは総力戦の実態を理解しきれていなかった。丁度いいところで講和というものはなかった。とはいえこれは欧州の政治家も同様である。短期決戦論に基づいた真珠湾攻撃がなくとも、アメリカは参戦していただろうと著者は言う。

 

 Ⅱ 海軍と政治

 ふつう太平洋戦争は陸軍の暴走として扱われるが海軍の非力にもまた原因がある。ワシントン会議で海軍は削減に不満をもった。ロンドン会議は悲劇といわれこのとき統帥干犯問題がおこったのである。財部彪海相や幣原の軍縮条約締結に不満をもっていた海軍軍令部に近づいたのが犬養毅鳩山一郎ら政友会幹部である。彼らは民政党内閣をつぶすために海軍をあおり条約の拒否を主張した。

 ――統帥権干犯問題をめぐる騒動は、軍事を知らぬ政治家たちが、政治を知らぬ軍人たちを党略に利用し、結局は自らの墓穴を掘ることになったよい一例であろう。

 これに右翼団体も参加し、やがては橋本斤五郎率いる桜会の結成につながる。親英米派がつぎつぎとテロにあう。

 「統帥権干犯問題を利用して倒閣を策した政友会の犬養首相が、その二年後に、この紛争を契機に急進化した海軍青年将校たちによって射殺され、彼が念願としてきた日本の政党政治とともに息を絶たれたのは、まことに歴史の皮肉といえよう」。

 この著者は犬養含む当時の狡猾な政治家にたいし批判的である。

 ロンドン会議以降海軍は艦隊派と条約派に分裂した。軍令部の優位が確立され海相は統制を失った。軍縮をめぐる憎悪は海軍に非合理的な思考、反英米感情、親独感情を蔓延させた。陸軍の二・ニ六にくらべ海軍将校の五・一五は未熟で幼稚なクーデターだった。

 当初満州事変に及び腰だった海軍だが、現地で将校が殺されると上海陸戦部隊を大量に派遣した。これを指揮したのが米内光政である。その後彼は蒋介石との和平交渉を拒絶し戦況を悪化させたという。著者曰く彼は無口で鈍重な東北人だった。

 ドイツの快進撃により海軍の南進論は勢いづいた。陸軍も南部仏印に進駐した。この直後の三国同盟により日本の道は決定した。

 軍のなかには英国のみを敵とし米国との戦争を避けることができるという「英米可分論」がはやっていたがこれはあまい見通しだった。

 

 Ⅲ 海軍の体質

 海軍は戦時中大勢順応、及び腰になったまま衰退の道を歩んだ。

 ――農民的体質をもち、ミリタントでしかも「デモクラチック」な陸軍と対照して、「リベラル」な海軍は、ある郷愁をこめて語られることが多い。

 外交によって戦争を避けることを重視する不戦海軍論は海軍リベラリズムの象徴であった。ときに「沈黙のままの海軍」とも揶揄された。英仏独でも海軍にくらべ陸軍は政治的だった。日本海軍はまず人数も少なく農民はみな陸軍に行った。日本は四海に囲まれながら海とは縁の薄い民族である。

 政治力を養うのは日常の雑務とこせこせした人間関係だが海軍にはそれを嫌う船乗り気質のものが多い。これはどこの国でも見られる現象である。イギリスの御雇い外国人ダグラスにより身分制の海軍がつくられた。学校では士官は貴族であれと教育された。

 「肉体の面でも下士官兵を圧倒せよ」。

 一方陸軍はドイツ陸軍にならった。

 ――議会制の母国イギリスは、海軍の母国でもあった。イギリスが育てた諸国海軍のうち、最も成功したのは日本海軍である。

 はじめ海軍は薩摩閥に占領されていたがこれを改革し公平な人事をおこなったのが山本権兵衛である。しかしこの後官僚化しシーメンス事件、ヴィッカース事件で山本、斎藤実は辞職に追いやられる。

 藩閥にかわって幅を利かせたのが兵学校出身者による学閥だった。勝海舟山本権兵衛加藤友三郎は「日本海軍の三祖」とされる。

 海軍と陸軍では人柄にも相違がみられた。

 「すっかり好々爺の常識人となった元提督たちと比較して、戦後もなお異常なまでにエネルギッシュな雄弁家の元将軍には圧倒されたものである」。

 海軍大学出身者は総じて常識的で計算が達者だった。

 ――これは海大卒をとくに優遇しない海軍の伝統や、計算を抜きにしては立てられない海軍作戦の特異性からきたもので、数字を通して冷やかに自己を客観視するならば肩を怒らせた悲壮感は生まれないはずである。

 海軍は政治に関心をもたずひたすら技術を追求し、読書もしなかった。少数精鋭主義はその精鋭たちが死んでからは用を成さなくなった。

 「日本海軍に死に花を咲かせた特攻作戦は、もはや戦略でも戦術でもなかった」。

 

 日英同盟解消後の軍縮条約や対日政策により、海軍は親英から反英へと転換した。老獪なジョンブル、偽善者、英国はそのように批判された。

海軍と日本 (中公新書 (632))

海軍と日本 (中公新書 (632))