うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ゴットフリート・ベン著作集2』 その2

 抒情詩の諸問題

 

 抒情詩についてのさまざまな話題。季節や風景を歌った詩は「私たち本当は歯牙にもかけません」。近代では小説と詩をどちらもやるものがいなかった。小説家はどうしても叙述、逸話をもとめてしまう。

 ネルヴァルからはじまる表現芸術の根幹たる技巧とは「諸価値の普遍的ニヒリズムに対抗して新しい超越性つまり創造的喜悦の超越性を措定しようという試みです」、

 「この概念は、表現主義、抽象、反ヒューマニズム無神論的なもの、反歴史主義的なもの、」である。

 カイヨワが反論したのはこの点だった。あらゆるものにニヒリズムがあるならどうして芸術の技巧と美がその例外になることがあろうか?

 ヘボ詩の四原則……「まず第一が、思いを詩に託するという奴です」。次は「~のような」という語を使うこと。「これは、取り寄せ、比較しているだけであって、本源的な措定ではありません」。例外はリルケである。第三、色を多用すること。

 ――これでもって本人は、きわだって豊かな、幻想的な効果をあげているつもりらしいですが、こんなものは言葉の三文判にすぎないのです。これらの色彩は、光学器製造者か眼科医のもとにねぐらを求めたほうがよさそうです。

 最後は星菫調である。「のっけから麗句がとびだしたり、たちまち泉のさざめきだの竪琴の響きだのうるわしき夜のしじまだのが顔をだしたり、起承も転結もなくめんめんと続いたり、星座や新しい神の誕生や似たような宇宙感情へと歌いあげたりするものは、読者の感傷性や柔弱さをみこんだ安っぽい思惑です」。

 ――偉大な詩人というのは偉大なリアリストでもあるのです――抒情詩に並の出来というのは絶対許されないし、それにまた、並の抒情詩というものは鼻もちなりません。

 抒情詩は傑作かクズのどちらかしか存在しない。

 言葉には意味と音以上の属性がある。詩は究極ではその言語でしか通用しない。

 「言葉には潜在的実存がある」。

 詩人について。詩人は秀才でも耽美家でも夢想家でもない。「大抵まったくもの静かな、それも内面的にもの静かな人間です」、ヴァレリーは二十年間沈黙し、リルケは十四年間沈黙したあと『ドゥイノの悲歌』を書いた。

 また芸術家と学者はまったく異なる存在である。芸術家は孤立、沈黙し、物笑いの種となっている一方、学者は「一瞬たりともひとりきりということはない」。

 ――叙情的自我がまだ何か言っていますよ。私にはどうも奇妙に思われる。中間層という奴は、科学なら何でも受け入れるくせに、芸術になるとまるでかたくなに心を閉ざす。

 エリオットは絶対詩を批判しテレビを否定したがベンによればこの態度は誤りなのだ。人間は変化していく、「中間層はいまや、意識と精神の成層圏に入って行きます。衝動とか、感情のぬくもり、動植物園的牧歌の方向ではなく、先鋭化した概念の連鎖の方向に、動物的なものを知的構成へとひきあげる方向に、内面的神秘主義を明確な、大地と結びつけた形態へと転向させる生産的な方向に向かうのです」。つまり抽象の方角へと向かっているという。

 技術の進歩などはいつの時代にもあった、「人間がはじめて吹矢で獣を倒した瞬間の方が、おそらくアイソトープよりもはるかに画期的であったでしょう」。

 彼は哲学を信用していない。

 「現代では哲学者も、心底では詩を書きたがっているのではないかという印象をどうしても禁じえないのです。哲学者たちは、論証的、体系的な思惟は、現今では終わりをつげてしまったと感じているのです」。

 現代詩は朗読するのでなくかがみこんで読むものだ。ある評論家曰く「これら作家に共通する特徴はと言えば、彼らはすべて難解な詩人だという以外にはない」。

 ――晩成すること、名声とか祝賀パーティーを求めてあせったりしないこと、これが私の教訓です。

 ヘーゲルの西洋的なことば「死を恐れ、破滅から単に身を守ろうとする生活ではなく、死を耐えぬき、死の中で自己を維持する生活こそ、精神の生活である」。

 

 芸術家の問題としての老化

 芸術家の作品と老化の因果関係は実証するのがむずかしい。おどろくべきは近代の芸術家たちの長寿の多さである。フローベールダ・ヴィンチもみじめな老境を送った。

 ――人生の夕暮、このおびただしい人生の夕暮! 大半が貧困と咳にあえぎ、背筋をまげ、麻薬患者、アルコール中毒者、なかには犯罪者もいて、ほとんど全員が独身、また子供もありません。この生物学的劣性のオリンピックの盛況こそ、近代西欧のオリンピック大会、古代以後の人間の栄光と悲哀をここ四百年にわたって集約してきた大西洋東岸オリンピック大会の実体なのです。

 偉大な老人は観念論者ではない、夢想はディレッタントに任せればいい。哲学は「すべてが試論の域をでず、要するに寄稿屋なのだ。水道栓をひねるとプラトンの説がちょろちょろと流れ出る、そこでシャワーを一浴びしていると、やがて次の者が入ってきて浴槽につかる、といった具合いだ」。

 国民は「国際的名声を望んでおきながら、自国民の趣味に反することを書く者が出ればただちに抹殺する……国民投票などで決めていては、クライストの戯曲『ペンテジレーア』が書けるはずがないし、ストリンドベリニーチェ、グレコも出現しなかっただろう」。

 ――画一主義はいついかなるところにも現われうるものであり、事実つねに存在したと言っていいが、ここ四百年の近代西欧だけは画一主義では到底創りだせないものなのだ。

 近代人は防疫学にまもられて柔弱になった。素材はいかに使ってもよい、「ただ一つはっきりしているのは、出来上がったときには完璧でなければならぬ、ということだ」。孔子曰く「意味が線に勝るような画家はまだ生臭い」。芸術の背後には真理も意味もない。いったい真理とはなにか、「スケッチ、構図、手工芸からなる真理であろうか」。

 クレマンソー、シュテルンハイム曰く「形容詞を削れ」。「新しい世代、それは新しい脳髄であり、また新しい脳髄とは、新しい現実と新しいノイローゼにほかならず、これらをひっくるめて進化と呼び、文化圏はこうして繁栄するということだ」。「精神上の事柄は不可逆」である。