第五章 文学的なこと
現象学的小説。音の排列による完璧な芸術をはじめに提唱したのがパスカルであり結実させたのがフロベールである。
「サンスクリットの研究者の食卓でのそぶりで、その象形文字を見てとらねばならぬのか、また実存主義者はその哲学のためにホッケーをして楽しむことを控えよとでもいうのか?」
思考と行動は別だとベンは言う。「つまり私は二元論者、反綜合主義者なのである」。だから「二重生活」なのだ。生の統一とか調和を彼は拒否したが医者としても彼は優れていた。
――……状況に適応せよ、偽装せよ、確信だけはもつな、ということである(顧客に対しては個人的意見は控え目にし、ある客には同意し、次の客には同じことでも反対するのだ)――他方ではしかし、研究所と事務所が要求するなら、確信と世界観と綜合において、羅針盤の指すどんな方向へでも、安んじて他人と行動を共にせよ。
彼は文筆業のことを普段はまったく口にしなかった。彼によると近年ドイツ文学研究で優れたものはクルティウスのもののみである。
「『牧羊神』、『神秘劇』、『飢え』などの作品は、われわれを深く感動させ、われわれの身体から文明現象に対する尊敬の念の最後の残滓まで奪いとってしまった」。
ハムスンは『ゼーゲルフォスの町』というのがいいらしい。
第七章 未来と現在
「未来は、私がしばしば書いてきたように、今生きているものにとっては重要ではない。生きているものの深刻な問題は、現在に属している。自分の中にあるもの――つまり自己に属している」。
ベンの世代にはまだ文学的残滓が残っていた。「父と子の問題、古代的なもの、冒険、旅、社会的なもの、世紀末の憂愁」など。いまやそれは消滅した。彼らはすべてニーチェの解釈者にすぎなかった。
――あるのはただ二つの言語上の超越的存在、数学の公理と芸術としての言葉。それ以外はすべて商業用の言葉であり、ビールを註文するたぐいのものだ。
「ものを書く機会には一切飛びつかず、ものを書く根拠を自ら作り出すこと」。
今日大手を振るっている思想は明日には時代遅れとされて道端に打ち倒される。ニヒリストであるかどうかという質問はくだらないものだ。「問題は、自分のニヒリズムをどうするか、にあるからである」。形式は真実にまさる。
ベンは宗教回帰を後退だとする。ここにはキリスト教的ヒューマニズムを公言するユンガーも含まれている。
「私が軽蔑するのは、自分自身のことを処理することなく、別のところに助けを求めるような人間なのだ」。
――大衆が興味を示してくれ、経済的な援助を与えてくれ、六十歳の誕生日を宴会や観葉植物で祝ってくれるなどと期待するのは、芸術家としては田舎じみた発育不全である。
予言があらわれる。
――人間は、さまざまな言い廻しや格言や無意味な連関によって、広くゆき渡っている気のきいた屁理屈によって、新たに再構成されねばならない。――出来上がるのは<引用符で囲まれた人間>である。その描写は、形式的なトリックによって、言葉とモティーフの反覆によって活気を帯びる。
彼はこの新しい人間を否定しているわけではない。
「統合しえぬものの前にじっと立ち止まる」。