うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ゴットフリート・ベン著作集1』 その1

 ゴットフリート・ベンは、戦間期から戦後にかけて活動した詩人である。ドイツ語が読めないので翻訳でしか触れていないが、表現主義に影響を与えた言葉の用法に大きな衝撃を受けた。

 また、ナチ党の台頭にともない多くの文学者、詩人が亡命する中、かれは軍医としてドイツ国内に留まり、当初ナチ党に賛意を示すが、のちに変心し、「国内亡命」と称してドイツ社会の観察を続けた。

 小説は観念的でなかなか読みにくいが、詩と評論、回想は、今読んでも大変おもしろい。当時のドイツがどのような風潮だったか、国家権力と芸術とはどのような関係にあるのか、またベンはそれについてどう考えていたのかを知ることは、わたしたちが生活する上でも参考になるはずである。

 

 

◆文明論・社会批評

 

 現代の自我

 「髭をたくわえた五十年配の先生方のいう言葉には国家は報酬を与え保護を与えていますが……創造を信じなかった職人仕事に対する嫌悪の情を植えつけようと思うのです」。「今や塔の時代です。主が打ち倒したバビロンの塔、無辜の人々を押し潰したシロアムの塔の時代です。今や荒野と海から最後の国へと流れ行く潮と雲の時代です」。

 ヨーロッパの、諸民族の終末などは存在しない。

 「いったい今なお諸民族なんてものが存在したのでしょうか? ……没落は預言者たちによって押しつけられたものではなかったでしょうか?」。

 ――平均人間によっては幸福も苦悩も決して存在しない、ということなのです。つまり、平均人間は自分の肉体性、自分の肉体的機構を体験しているだけで、プラトンを持ち出していえば、<満足している>か<不満足である>にすぎず、運命をもたず、運命を知らず、この世に生まれ来て人生を享楽し、時ならずして霧消してしまう墓場に運び込まれるというのです。

 それにしてもこんな講演をされて医学生は理解できたのだろうか。陶酔を求めよ、機械的、数量的世界を憎悪せよと説く。

 

 芸術と国家

 ベンはもっぱら医者としての収入に頼って生きてきた。デーブリーンもまた健康保険医だった。

 「国家と自治体の芸術保護はどういう状態にあるのか、その芸術に対する思いやりはどうなのか、いったい芸術の社会学はどうなのか、という問題を考えてみたい」。

 ――国家と国家に代表された公けの機関が芸術を鑑賞し、芸術を承認するとき、洗練された高尚な資本主義というカテゴリーが生まれる。

 国家は一流の詩人をつねに迫害してきた。芸術院を仕切るのは「中産階級の心理をせっせと取り入れる沖仲仕文士」などの面々である。国家が保護し奨励しているのは芸術や学術ではなくその代用品である。

 土木工事だけで国が維持されるならローマは滅びなかったろう。

 「国家を維持するのは精神の内在的な力、つまり、非合理的なるものの暗闇から生ずる創造的実体なのであろう。そして、この場所こそ芸術というそれ自体ニヒリスティックな問題が政治の場に関わる場所でもありうるのだ」。

 芸術は教養や文化とは異なり孤立した現象であって「個別的には不毛かつ偏執狂的なものだ」。ベルリン市長の台詞という枠を使って炸裂したことばをならべたてているようだ。

 「あなたはマーマレードや靴の裏底やゴム製品に金をお支払いになる。しかしあなたの心を鼓舞してくれる美辞麗句、笛の調べ、民謡などには、お支払いにならない。あなたは借りもので生きていらっしゃる」。

 ヘルダーリン曰く「永続するものを、打ち立てるのは詩人」である。

 

 見通しの総計

 「新しい歴史が始まる。未来の歴史が始まる。それはメンデルの法則に律せられた国の歴史、自然合成の歴史となるだろう」。「個人的なものがますます型に嵌め込まれ、行動はいよいよ規格化される」。西洋による世界の機械化を巨大歴史として書く。

 ――あと五十年もこれが続けば、永劫なるものが揺り返してくる。新しい汗が生まれ出て、新しい旗、預言者の新しい緑の旗を打ち振り、ヴィシュヌの神を目覚まし、アジアを植民し、インド平原の廃墟を通り抜け、黄土を越え、茶畑の白い花を過ぎ、長城を越えて、明朝の王墓の霊にとりまかれつつ、立ち昇ってくる。それは一人の黄色の肌の神である。

 

 非合理主義と現代医学

 医師レンネが登場する。現代医学の世界においても、「病は気から」のごとくまじないや暗示で症状が改善することがある。

 「明らかに人間は、西欧の主知的な学者連中が主張しているよりはるかに原始的なものである……生も死も、あきらかに、個人主義が考えるような大事件ではない」。

 死は内的原理、内的創造主によって起こる。

 感情、刺戟的な言葉がふたたび認められはじめる。

 「言葉は陶酔させ、また生命を奪う、とレンネは考える」。

 いま西洋は誰をどのように治療するのか? 「白人種の究極の偶像としての個人的分泌線牧歌」。「もし時代が、合理化した個々の存在の背後に何ものをも見ず、個々の存在を馬力とか有用性とか労働力、内臓反射とか分泌腺の快楽以上のものと思わないならば、こうした存在の肉体の崩壊を三週間、あるいは三ヶ月先へ延ばすことが、人間問題のために何らかのより充実した意味をもったであろうか?」

 人間がただの物質、「生まれてから死ぬまで鼻腔注入や栄養浣腸で育て上げた進歩主義の寵児たちの上にあぐらをかいているもの」なら、そんなシロモノを治療することになんの意味があるのかということのようだ。

 東西の資本主義集団は「経済的財産としての健康」ということばを用いる。

 ――灰分と臭素を投与されてこき使われ、経済の繁栄に貢献し、やがて大草原の土と化し、窒素となる、これが時代の健康なのだが、こんなのは、蚊の健康に及ばず、飼い犬の健康にも遠く及ぶまい。

 はたしてこれらの疑問はわたしの時代になって解決したのだろうか。「主知主義の時代の偉大な息子」。寿命の延びた分だけきっちり働いてもらわねばならない。「そのとき往生すればいい、あとはただ大地汚染の問題が残るだけだ。そうなれば、アタナナリーヴォの国際衛生見本市に展示されたあの新しいモデル墓地に入れればいい」。

 ――つまり、こんなのが人間および人間の生と死の姿となったのだ。

 曰く、白人種は実証主義的ですべてを破壊し創造することになんの関心もいだかない。

 「勝利と延命、すべては自分たちのため、つねに自分たちのため、自分たちの空腹、自分たちの骨、自分たちの生、彼らの欲望の大きさはいかなる動物と比べても劣るものではなかった」。この生産力が、非合理的なもの、創造の源泉、漠たるものを単なる気付け療法の商売として扱うなら、それはよからぬことだ。

 レンネは「自己の個性、いや自己の生命の深刻なる危機」に直面している。永遠の神秘の残滓だけがすばらしい時間を与えてくれるかもしれないのである。いぼ治療の話から主知主義批判への展開。

 ベンはおそらく医学用語を使って楽しんでいるに違いない。