うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『かくれた次元』エドワード・ホール その4

 第十一章 通文化的関連におけるプロクセミックス

 ここからは具体的に主な国民の空間感覚が述べられる。

 ドイツ人

 ドイツ系アメリカ人やスイス人はだれもが、アメリカはスケジュール・時間にやかましいと批評する。ヨーロッパ人は、アメリカ人ほど予定を詰め込まず、「急き立てられている」感じがすくない。一方、アメリカ人は空間には無頓着である。

 ドイツ人は2、3人の会話グループのまわりに距離をつくり、彼らは声を小さくして会話する。北ドイツ人は、他人の家のドアの前で、「首を戸口につっこんで」話すだけでも、他人の家に侵入していると考える。彼らにとっては部屋の中が見えるところが、もう自分の領内なのだ。公衆距離で人を見つめるのは侵害であり、ドイツの肖像権はこれを背景にして生まれた。

 「ドイツ人は自分の空間をエゴ(自我)の延長であると考える」。アラブ人とは対極に、自分のプライベートな圏をまもるためにどんなことでもする。第二次世界大戦中、ドイツ兵捕虜は大きい小屋をつくらず自分用の壕をそれぞれつくった。風呂や部屋の共同使用はドイツ人には耐えられないので、占領下ベルリンで彼らは殺し合いまではじめた。

 ドアは二重で重く、開けておくのはだらしない。子供は「話ができないときにはドアの向こうへ引きさがればいいのです」。アメリカの建物は総じて安く、薄っぺらで、筒抜けに感じる。ドイツ人とアメリカ人はビジネス上で、ドア問題の衝突をおこした。アメリカ人のほうは、ドアが閉まっていると「その場所で何かがたくらまれていて、自分がのけものにされているという感じを」受ける。

 秩序、境界、権威一般を重んじる。列をはみ出したり、立入禁止のところに入らない。彼らは隣のポーランド人にたいして大いに不安を感じる。

 ――彼ら(ポーランド人)にとって行列とは軍隊編成と盲目的権威の象徴に見える。私はあるとき一人のポーランド人がカフェテリアの行列を「この羊どもに元気をつけてやるために」乱すのを見たことがある。

 つまりドイツ人は「侵害距離についてはきわめて杓子定規である」。アメリカ人は彼らを堅すぎて融通がきかないと考える。ドイツ家具は、椅子もふくめて、簡単に他人に動かされぬように重くつくられている。

 イギリス人

 アメリカ人とイギリス人はたしかに違う国民である。イギリス英語はアメリカ人には気取って聴こえる。アメリカでは空間で人を分類するが、イギリス、とくにパブリック・スクール出身者は、社会システムで人を分類する。アメリカでは住所が地位をあらわすが(高級住宅街など)、イギリス人はたとえ魚屋をやっていようと貴族である。

 アメリカ人は、英国人にくらべて「自分の部屋」に強い欲求をもつ。「イギリス人はアメリカ人が確かな仕事場、オフィスを必要とするのを不思議がる」。

 イギリス人留学生はうまくいかなかった……自分の考え事をする時間があるのだというサインを送っても、アメリカ人はそれを察することができなかった。

 「ぼくが部屋をぐるぐる歩いていると……同室の男は必ず話しかけるのです」。

 アメリカ人は一人になりたかったら自分の部屋に入る。イギリス人は同じ部屋にいながら会話を拒んだり、黙殺したりする。これはホームズがしょっちゅうやっていることだ。イギリス人は他人を避けるために空間を用いる習慣がない。考え事の最中に電話をかけてきたものは邪魔者とみなされる。だからイギリス人は手紙や電報を重視する。

 イギリス人は隣近所だからといって「その家を訪問したり、何か借りたり、つきあったり、子供をいっしょに遊ばせる資格ができる」とはみなさないので、多くのアメリカ人は傷つき、途方にくれる。

 ――アメリカ人に対するイギリス人の基本的態度は、われわれが元移民の階層であるということをにおわすことである……イギリス人の関係は空間によってではなく、社会的地位によって型どられるからである。

 ヨーロッパ人にとって、一般にアメリカ人の声はうるさい。彼らは声が他人に漏れることを気にしないからだ。アメリカ人からみると、イギリス人のささやきはなにかをたくらんでいるかのようだ。イギリス人は相槌を打つのに、相手を見つめてまばたきを使う。「話を聞いてるのか、こいつは」と多くのアメリカ人は思うだろう。

 フランス人

 パリ南東に住むフランス人は地中海文化に属している。彼らはゲルマン系よりも密接に集まる。だから彼らは感覚的により多くインヴォルヴされている。地図をたいへん丁寧に書き、どこでどの感覚を用いれば楽しめるかを教えてくれる。

 彼らの多くは多人数で暮らしているので、外出を好む。家庭は狭くて混雑している。フランス人は対面すると、穴のあくほどよく見つめる。シャンゼリゼ通りでアメ車を走らせたら、小魚のなかのサメのように見えるだろう。彼らは都市のカフェテリアや公園を楽しみ、車も町並みを威圧しないよう小型である。

 ヨーロッパには、空間の型に二つの体系がある。フランス、スペインの「星状放射」で、集社会的である。もう一方は小アジア起源の「格子型」で、離社会的である。星状型は点ですべてを結び付けるが、格子型は線で活動を区切る。星状の街で道を間違えるとまずいことになる。星状放射はフランス人の生活におどろくほどとりこまれている。

 ――権力と影響力と統制力が一連の組合された中心地へ流れ込み、流れ出すような型の上に文化全体がつくりあげられているかに見える。

 フランスは放射状の網目に覆われて、その中心はパリ、カーン、アミアンル・マンス、レンヌなどだ。

 「あるフランス人が、俸給を上げるように要求してきた……その理由は彼の机が中央にあるからということだった」。

 以上の三民族は、アメリカともっともつながりの深い文化だが、次はまったく違う空間世界をもつ民族を取扱う。

 

 第十二章

 日本

 占領によって日本人は外国文化のとりこになった。万能の中心という概念があり、徳川家は中心を親藩、辺境を外様で配置した。火鉢、こたつに集まる日本人。アメリカ人にとって日本人は遠まわしindirectionである。

 「気狂いになるのにいちばん手っ取り早いのは、古い型の日本人を相手にすることだ。やつらは要点のまわりをぐるぐるとまわるだけで、それ自体を取り上げることは絶対ないのさ」。たしかに、著者が書く日本ももうなくなりつつある。

 アラブの世界

 アラブにいくと、まず公共の場でにおい、混雑、騒音に圧倒される。アラブ人の家は大きく、物足りない感じがする。アラブ人は混雑のなかで小突きあうが、それにもかかわらずヨーロッパ人をあつかましいと感じる。

 われわれは、公共の場で立ち止まったり腰掛けると、勝手にその人に話しかけたりしてはならないと考える。だが「アラブ人の考えでは、私がある場所を占めているからといって何の権利も生じはしない」。公共の場における侵入というものが存在しない。邪魔だったらどかせてもかまわないのだ。どかそうと小突いたり、近寄ったりする。

 アラブ人の自我は体の奥にひそまっているから、皮膚にふれられても抵抗はない。だが、自我は隠れていないので、侮辱やことばには無防備で、すぐに反応する。身体と自我は別のものだから、サウジアラビアでは盗賊の手首を切り落とすのが一般的である。

 彼らは砂漠から逃れるため、都市化せざるを得なかった。人口過密に適応するために、自我を身体の内側へ押し込むことを覚えたのだった。彼らは一人になることを好まない。アラブの老人曰く「人間のいない天国は地獄」。アメリカにやってきたアラブ人は総じて孤独を感じ、故郷に帰りたがる。一人になりたいときはイギリス人と同じように話をやめる。

 においは重要な接触の手段で、快いものである。においが不快なときははっきり言う。他人を目の端で見るのは失礼であり、背中合わせに立ったり坐ったりするのは無礼だと考えるので、歩きながら話をすることができない。

 社会的な場面では彼らは部屋の両端まで離れて話すが、アメリカ人の社会距離は彼らには中途半端に見える。「においがいやなのか、怖がっているのか」わからないのだ。アラブ人の相手をながめるやり方は、アメリカ人にはがんを飛ばしているように見える。アラブは互いに目の中を見つめあう。

 公共の場におけるプライバシーというものがないので、商取引に見物人も加わり、知らない子供も注意する。「政治の水準では、トラブルがおこりかけているときに干渉しないことはその仲間に加わったことになる」。通りでけんかがあったらとめなければならない。

 彼らは囲われた狭い空間から「墓」を連想し、忌み嫌う。よそ者と敵はほぼ同義語であって、侵害において重要なのは空間や土地ではなくそれが誰かである。

 

 第十三章 都市と文化

 文化によってすみわけを行うべきと著者は主張する。

 異なった文化をもつ人間が異常に密集して生活するのは危険なことである。スラムの問題を解決するには空間を考えることは不可欠であるという。

 人口過密と犯罪、病気は密接につながっている。インヴォルヴメントの低い民族は単一時の傾向があり、インヴォルヴメントの高い民族は多元時の傾向がある。単一時とは、時間を区画し、一度に一つのことをする特徴のことだ。一方、多元時とは一度に多くのことをする。

 ――たとえば単一時的な北欧人は多元時的な南欧人がたえず邪魔をして、何もできないのを我慢できないと思う。南欧人は逆に順序は重要ではないので、強引な客は最後に入ってきても最初に応対を受けるのだ。

 ――今日のアメリカの都市では実際上あらゆるものが離社会的であって、人々を分かれさせ、互いによそよそしいものにしている。人が打たれたり、時には殺されたりしても、その「隣人」が電話さえ取り上げずに見ているだけだという驚くべき例が近ごろいくつかある……

 著者は、この原因を自動車だとする。ロスアンゼルスでは60から70%の空間を自動車が占めている。排気ガスや交通量のせいで歩くことも困難になる。一方、パリのシャンゼリゼ通りは車道から100フィート以上離れていて、また車の入れない裏通りや横道が多い。「人間のためにある」街である。

 

 第十四章 プロクセミックスと人間の未来

 「人間の存在と行為は事実上すべて空間の体験と結びついている」。感覚を遮断し、より狭い空間により多くの人が住めるように、人間は進化した。だが密集と人口増加は最終的には死を招く。文明は人間の神経系の根源にまで浸透している。

 「人間は文化というメディアを通してしか意味ある行為も相互作用もできない」。

 人間の延長物、文化の次元の大部分はかくれていて眼に見えない。それを見出すことが大切である。

かくれた次元

かくれた次元