うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『かくれた次元』エドワード・ホール その2

 第三章 動物における混みあいと社会行動

 

 動物行動学者ジョン・カルフーンは三年にかけてネズミの繁殖させ、混みあいがどのような状態をひきおこすかを観察した。「彼の目論見は、個体群をストレス状態に維持したままネズミを三世代にわたって飼い、一個体ばかりでなく何世代かにわたってストレスの影響をみることにあった」。彼は行動のゆがみを「シンクsink」と名づけた。行動のシンクは、集団の中に生じるあらゆる病理的な状態を悪化させる。

 このネズミ実験で、たとえば弱い攻撃的なオスは規則を守らずに集団でメスを追い回した。また汎性愛的(パンセクシュアル)ネズミは雌雄、老若の区別をつけず交尾をおこなった。ある種のオスはまったく交尾しようとせずメスにも近づかなかった。またほかのネズミが眠っているあいだだけ行動するものも出てきた。ストレスによる副腎の肥大は攻撃性を増加させ性的活動を爆発させる。

 ストレスは進化に役立つという点では有効な手段となっている。種間競争ではなく、種内競争を促進させる力がある。この種内競争は、品種を洗練させていく。

 人間の祖先は地上生活をやめて樹上生活へ移った。こうして彼らは嗅覚を捨てて、樹上生活には不可欠な視覚を強化した。これで人間は混みあいに耐える能力を得た、もし嗅覚が発達していたらそばにいるだけで他人の情緒の変化を嗅ぎ取ってしまうからだ。情緒的な意味は世間のだれにもわかる記憶として場所に残ってしまうだろう。生活はインヴォルヴされ、インテンスなものになるだろう。嗅覚中枢は視覚よりずっと古く原始的である。

 「嗅覚は、深く情緒的なものであり、官能的には満足のいくものであるが、人間をまさに逆な方向に押しやる」。

 「遠距離感覚器」の発展は、人間の場合視覚と聴覚においておこなわれた。眼は複雑な情報を認識でき、抽象的思考を促す。芸術……詩、絵画、音楽、彫刻、建築、舞踏は、すべて眼と耳に依存する。

 ――人間が発達させた芸術によって視覚、聴覚、嗅覚におかれた重点のちがいが、空間の知覚において、また空間内での個人の関係において、いかに大きなちがいを生みだしてきたか述べることにしよう。

 

 第四章 空間の知覚――遠距離受容器、目、耳、鼻

 人間の感覚装置には、前述の遠距離受容器と、近接受容器(触覚)がある。触覚のシステムは生命と同じくらい古い。視覚は新しく特殊である。

 眼は耳の千倍の情報を伝える。耳は二〇フィートまでは有効である。音波と光波からみても、視覚のほうが圧倒的に多くの情報を受けとる。テレビとラジオを考えればわかりやすい。視覚の世界と聴覚の世界の不一致がどう影響をおよぼすかはまだわかっていない。だが、音声学者ブラックによれば「部屋が大きくて反響に時間がかかるほど、小さな部屋のときより読むのがおそくなるのである」。

 空間の知覚は知覚するだけでなく遮断するものでもある。ある文化の人間は一定のタイプの情報を遮断し、他の情報に注意を払う。日本人はふすま一枚で満足するが、西欧人は分厚い壁と扉を必要とする。となりからうるさい音の聴こえる部屋にいると、たとえばドイツ人は「なにかが自分の中に侵入してきた」と感じるだろう。

 ――嗅覚は、視覚や音よりはるかに深い記憶をひきおこす……

 においは本来化学的な信号あるいはメッセージであり、これは体内の信号と相関関係をもっている。あるアメーバはガスを放出しこれによりスペーシングをおこなう。トナカイがおどろいて逃げた場所にもう一匹のトナカイが近づくと、その恐怖のにおいを嗅ぎとって場所を離れる。

 アメリカ人はにおいを忌避する北ヨーロッパの文化を受け継いでいる。アラブ人は他人の怒りや不満のにおいを嗅ぎ取ることができる。

 「他人に息を浴びせかけることは、アラブ諸国ではふつうのふるまいである」。

 アメリカでは「公的な生活からごくわずかなものだけ残してすべてのにおいを追放した」。

 においの追放された世界がどんなものかは、著者がのちに検討する。

 

 第五章 空間の知覚――近接受容器 皮膚と筋肉

 ――昔の日本庭園の設計者たちは、視覚的な体験と空間の筋覚的な体験との関係について、明らかに何らかの理解をもっていたようにみえる。ヨーロッパ人は部屋の隅を使うが、(かつての)日本人は中央に物を置く。

 皮膚の感覚も、遠距離受容器におとらず重要である。もしなければ熱さ寒さに気づかず死ぬだろう。これもまた人間の空間知覚にかかわっている。体の部位の温度変化によって、情緒が伝えられる。怒りで顔を赤くしたり、冷や汗をかいたり、そういうことは「誇示display」の名残であることがわかった。他人が座っていてあったまっている椅子に座りたがらぬのは、自分の知らない熱にたいして反応しているからだ。「はらわたが煮えくり返って」とか「冷酷な」とか、ことばにあらわれているように、「体温の変化を人間が認知することはきわめてふつうの体験」である。

 視覚世界と触覚世界は密接につながっている。触覚にはまた能動的触覚(触れること)と受動的触覚(触れられること)がある。触覚中心の世界は直接的であり、ずっと友好的である。「手ざわり」はほとんどが触覚によってのみ得られる。

 人間はつねに動くものだから、皮膚よりも広い空間を必要とし、災害時などに物理的接触を避けようとする。日本人とアラブ人は、ヨーロッパ人より交通機関での混みあい耐性が高いようだ。

 

 第六章 視覚的空間

 視覚は他の感覚よりはるかに多くの情報を伝え、またその速度も速い。視覚は星さえ見ることができる。また、眼は情報を得るだけでなく、自分の感情などを伝えることもできる。人間は学習によって体験を統合化するから、カモフラージュを見破ることができる。網膜に映る視野visual fieldを使って、人間は視界visual worldをつくりあげる。

 視覚は人間の筋覚的体験によって調整される。視覚は厳密には光と色と形以外は認識しないので、距離をはかる(高低、左右、遠近)のは彼の過去の筋覚的・触覚的体験に基づいてである。聴覚も音だけを拾うので、馬車の音を聴くのではなく、「心の中で馬車というものとすでに連合を生じるようになった音」を聴くのである。

 なぜ視野に映る、つねに動きつづける物体を、イスだとか机だとか認識できるのか。これは脳による体験の統合の賜物である。見えるものもまた普遍的ではない。黒人はわれわれにはみな同じに見えるが、日本人はしっかり見分けがつく。文化によって眼の使い方が異なるからだ。

 眼の周辺部では運動は誇張されるので、ハイウェイから並木道に入ると、木がびゅんびゅん通り過ぎるので、みなスピードを落とす。

 「人間の眼が二つあるから」遠近感が生まれるというのはあまり正しくない。「遠近感とは、感覚から作りあげられるものではなく、単に視覚的体験の一面にすぎない」。遠近法は東西の根本的な違いをあらわす。西洋は物体を知覚するが、東洋はそのあいだの空間、「間」を知覚する。

 いままで芸術と科学が融合したのは、ルネサンス印象派の時代だが、またそれがおとずれつつあると彼は書く。

 

 第七章 知覚への手がかりとしての美術

 画家が対象の人間から13フィートはなれると、それはボール紙を切り抜いた輪郭のようになる。4ないし8フィートになると、遠近法でとらえることが困難になり、公平無私に観察することができなくなる。これが肖像画に適した距離である。それ以上近づくと、もはや画家に必要な素材からの離れdetachmentが保てない。そうなるともう、殴り合いの位置である。以上のグローサーの絵画論は、ホールの論じた対人的空間の考えとおどろくほど一致している。

 画家は視覚の場における訓練を受けている。彼らは「文化の広範な価値の注釈者であるばかりでなく、その価値をつくりあげる微小文化的できごとの注釈者でもある」。

 エスキモーは踏んでいる氷と雪の感じを手がかりに、目では区別のつかない氷原を移動する。彼らは風に十二の名前をつけ、聴覚・嗅覚世界に生きている。

 ――画家や作家の本質は、読者や聴取者や観賞者をして、描かれたことがらに一致させるだけでなく、言葉では言い表せない言語とか相手の文化に矛盾しないてがかりとかを、えらんで与えることにある……芸術家の主要な機能の一つは、一般人がその文化的世界を秩序づけるのを助けることである。

 現代人が祖先の感覚世界を十分に体験するのはまず不可能である。視覚は能動的なもので、アルタミラやラスコーの壁画を見ても、われわれは自分たちの視覚世界をそこに投射してしまうのである。エジプト人の感覚世界、ギリシア人の感覚世界について。

 挿絵などの複製は問題外であるという。なぜならすべてを知覚する必要があるからだ。たとえば縮小は複製の主要な役割だが、大きさが変わるということは根本がゆがめられることである。

 視野と視覚の違い、そこにあるものと、それが眼にうつるさまが違うことに気づいたのはルネサンス以降である。だが、遠近法は三次元を二次元にしてしまうことだった。レンブラントは、人間の視覚について研究していた。彼の絵は一定の距離から見ると、おどろくべき現実性をもってあらわれる。「レンブラントの絵は、視覚過程に関する意識の高まりと自意識の強まりが見られ、これは十九世紀の印象派をはっきりと予告しているのである」。

 印象主義シュールレアリスム、抽象主義、表現主義は、時の流れとともに、それらもまた知覚に基づいていたのだと証明された。「大気をみたし物体から反射される周囲光」に印象派は注目した。印象派は、見る側から、ふたたび空間へと関心をうつした。

 セザンヌマチス、ドガ、「脳は輪郭線によってもっとも明確に「見る」のである」。ブラックは触空間を伝えようとした。パウル・クレーは、時間を、空間と空間変化の知覚にむすびつけた。野獣派は色彩もまた遠近をもつことを発見した。

 エスキモー美術は、彼らがその作品をつくりだすような環境に住んでいることを教えるが、現代美術は意図的に文化的基盤を排除する。現代美術が嫌われるのはこのためでもある。

かくれた次元

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