うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『追悼の政治』エルンスト・ユンガー その1

 ユンガーの著作は日記、エッセイ、小説の三種に分類される。ドイツでは重要な作者ということだが内容は難しい。

 

 「忘れえぬ人々
 まえがき

 ドイツ人は無名兵士には尊敬をもたない。

 「我々は、敬うこと、畏敬の念を覚えることをも好む。そしてこの畏れという言葉は、敬意に値する人物との隔たりの全き深みを表現している……英雄は大衆に属さない……この尊敬の念は特に……全く特定の人、特別の人、独特の人に向けられるのである。これが、ドイツ人の並外れた特徴である」。

 無名兵士は本来無名ではなかった。死ぬということはあらゆる差を失うことである。

 「最下級の者もまた、この不平等の世ではこれ以外の仕方では決して考えられない程の無条件性の高みにまで昇る」。

 特定の人格をもつ英雄をドイツ人は尊敬するが、ユンガー曰く、だから無名兵士をおろそかにしていいわけではない。

 ――我々が、無名兵士に見て取るものは象徴としての犠牲の概念であり、個々の運命に見て取るものは象徴としての犠牲のイメージである。両者は、一つの霊性を創出しようと努める二つの比喩なのである。

 すべてが証明された時代から、新しい信仰へは一足先である。それは「偶然の世界と必然の世界とを分かつあの一歩である」。無名戦士の死は、敬うには偶然の要素が多すぎるのだろうか(ただ運が悪くて弾にあたった)。だが、彼らの血は、「ただ一つの大きな心臓の源に属するのである」。

 この源がドイツ的なるものということだろうか。

 「ある個人的な性格が単に彼の自己の表現であるばかりでなく、より大きな性格の表現であるとともに、他方でこのより大きな性格が無数の個人を通じて姿を現すこととは、決して矛盾でない」。

 これは「統一が孕む多様性と多様なものにおける統一」である。

 業績(ライストゥンク)は専門の能力によって達成されるが、業績を達成するのはあくまで一人格である。アレクサンドロスは、世界征服という点よりも、アレクサンドロスであることにおいて価値がある。

 ――業績の偉大さは悟性によって評価され認識されるが、その根底にある性格の偉大さは心によって感じ取られる。

 「したがって、我々の戦死者たちのイメージ、偉大な犠牲のこれら比喩のイメージを、最良の意味において民衆的なものとすることは、美しい奉仕でもあるのではなかろうか」。

 あとがき

 単調な生活の奥にある偉大なものの存在をうったえる。

 「生の数学は、それ独自の法則を有している。すなわちこの数学において、全体は部分の総和より多く、結婚は男と女より、友情は二人の人間より、国民は人口調査の結果が表現しうるものより多い」。

 第一次大戦での流血は、ドイツ人の平和への希求にとって意味深いものとなった。

 「それの価値を測るものは成功ではない」。

 ルターは宗教改革と同時に、反宗教改革にも貢献した。ルターなしに現在のカトリックはないだろう。

 彼はドイツを偉大なもの、神秘的なものとしているのだろうか。

 「我々はまた、この灼熱が大衆を溶かして、大衆以上の何ものか、「諸個人」という原子の機械的連関以上の何ものかへと融合させることができる、ということをも経験した」。

 ――このような時代にもかかわらず、これら多様なる人びとすべてと自らとの親しい結びつきを感じ取る一つの態度が、可能である、もしくは少なくとも望ましいということ……ドイツに――もっとも出来の悪い息子をも含めて等しく皆を大事に思う――偉大な母を見出す者には、このような態度が唯一重みのある態度である、と映じる。

 「ドイツ的」とは比較級の存在しないことばである。英雄も無名兵士もひとしくドイツの無時間的な記憶のなかに植えられた。

 

 「総動員」

 第一次大戦は他の戦争とはどのように違うのかがテーマである。

 ――すなわち、そこでは戦争の精霊が進歩の精神によって満たされた……

 進歩はすでに(一九三〇年)進歩でなくなり、笑いものにされている。だが、進歩の本来的な意義は、理性の仮面の裏に隠れている、より重要なものなのではないだろうか。

 「まさしく、典型的に進歩的な運動がそれ本来の傾向と対立する結果へと行きつく確実さに注目するならば、――生のあらゆる領域におけると同様――ここでも、運動本来の傾向は別の隠れた原動力ほど決定的なものでないということが、容易に推測できる」。

 合目的性のパースペクティヴを無限に引き伸ばせるのは「信仰」だけである。

 ――進歩が十九世紀の大人民教会であること、しかも現実の権威と無批判の信仰とを享受した唯一のそれであることを、誰が疑おうとするであろうか。

 十九世紀には、まだ戦争とは部分的な、収支計算の可能な動員だった。第一次大戦では、国を代表して武装することは全兵役可能者の任務となった。戦争のイメージは会戦ではなく、「巨大な労働過程といういっそう広がりをもつイメージへと流れ込む」。大戦末期には、戦争とかかわらない労働や行為は存在しなかった。

 ユンガー曰くこの「総動員」は第四身分の出現を示唆している点で、フランス革命の重要さに匹敵する。

 後期物量戦においてもまだ、究極の可能性は達成されていなかった。

 「……達せられるのは、戦争という出来事のイメージが予め平時の秩序の中に描き込まれるときだけである」。

 曰く、戦後、国家は総動員の概念に基づいて軍備を開発しており、ロシアやイタリアではうたがわしき観念「個人の自由」というものが否定されはじめている。常時戦争経済の国が新たなる段階の国である。

 ――この動きの向かうところは、国家の機能として理解できないものが全く存在しない状態にある。

 これを生じさせるのはわれわれ自身の、機械と大衆のなかに置かれた生活である。騎士や王ではなく、労働者の戦争の時代がはじまるのであり、これは「効率的な構造とその高度の冷酷さ」を備えている。

 総動員への準備態勢にいたった理由は、経済的理由だけでなく「礼拝的な次元の現象」にも注目しなければわからない。この、総動員を可能ならしめた礼拝の対象こそが、進歩なのである。進歩は自動作用として働くので、たとえ戦勝国であってもロシアやイタリアは崩壊した。戦争は国家の土台をためす地震のようなものであった。

 重要なのは軍事国家であるかないかではなく、動員の能力を持つかどうかだった。この意味でアメリカは真の勝者である。この大戦で、一般的人権にたいして脆弱な王権はことごとくつぶれた。

 プロイセンオーストリアの、王権侵害への訴えかけは動員力がなかった。進歩の形態である自由主義国家においては、「ただの紙切れ」である憲法が重みをもつ。重要なのは「どういうやり方で自らの利害に、人道的要請、人類に関わる普遍的課題という地位を与えうるか、ということ」である。

 ――ひょっとして我々も、ベルギーで誰かを解放する、と主張できていたなら、どうだったろう。

 ドイツは、時代精神を援軍にひきいれることができなかった。彼は、「ドイツのために」という旗印こそ、力をもつだろうと言う。ドイツでは進歩はあまり動員力がなかったが、フランスでは大きな効果をあげた。自らを私心なき十字軍として演出すること、これである。

 ドイツは西欧の領域に関与したことによって、つまり文明、自由、平和ということばを手に入れたことによって、戦争に敗れ、皇帝は消えた。だが、外国が支配の座につこうと、民族が表面的にならないかぎり、その根源的なデーモンは消えることがない、と彼は言う。偉大なドイツ、ゲルマンの無垢はまだ力をもつだろう。ならば「我々は、世界にとっての最高の危険の一つとして世界から受けとめられることを、誇りにしてよいのではなかろうか」。

 愛国主義は、近代ナショナリズムファシズム、ボルシェヴィズム、アメリカニズム、シオニズム、有色民族の運動にとってかわり、進歩は「もはや絶対主義体制のそれとほとんど変わらないような形式に、諸民族を従わせ始める」。人道の仮面がはずれて機械と技術の崇拝がたちあらわれる。大衆との距離の近さが、理念の重要な要素となる。

 ――資本主義と社会主義とは……進歩の大教会の……二つのセクトにほかならない。

 自由と進歩の大義のために戦ったパリの無名兵士への崇拝を拒否せよ。なぜならドイツ人とはこの進歩の軍隊とは別の、固有の理念だからである。

 「ここに一般的なるものが終り、ここに我々をヨーロッパから隔てる柵が始まる」。

 大戦での敗北は、ドイツ人の自己実現のための重要な過程であった、と彼は言う。

 

追悼の政治―忘れえぬ人々/総動員/平和

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