うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『文学の思い上がり』カイヨワ その2

 第二編 文学の諸問題

 文学は社会のなかにある。言語はなによりも社会的な道具である。社会を軽蔑する作家は言葉の規範も軽蔑するようになる。

 「作家はもはやぼんやりした、なぞのような、錯乱したものしか作らない」。

 文学は権威を打ちたてようとするか、悪い天使のようにそれを徹底破壊しようとつとめるか、どちらかに傾く傾向がある。彼らの嫌悪する束縛とは、はたして圧制なのか、それとも人間が人間であるためにつくられた秩序なのか。自由を求めて野獣が出てきただけなのか。いったい、何が人間の役に立つか。

 

 第一部 公的な領域、権力争い

 倫理、共同体とのつながりは宿命である。予言書も、修辞学、幾何学も、文学からは除外される。すると「文学には、目的が漠然とし、効果があいまいで、説得力を持たない、という書きものしか属さないことになる」。書き方にうまい下手はあるが、それとは別に、文学は道徳的か非道徳的であり、有害であるか有益である。

 ――行為あるいは言論に共通の運命を、文学作品だけが何か神秘的な特権によって免れている、というようなことはない。

 芸術家はいったいなにから独立したいのか。社会は外面的な統一を要求する。意識の内部には社会は興味をもたない。社会は自らを弱めたり混乱させるものを罰し、自らを繁栄させるものを奨励する。売春よりは革命が厳しく取り締まられる。

 ――社会は奇妙なことだが無知に味方する。社会は事実を隠す書物を他よりも好む。社会は事実を教える書物をまず第一に有害なものと見なす――社会は、既成の秩序に対する単純で、機械的な尊敬を、市民たちの最も信頼のおける、望ましい態度と考えているのである。

 芸術の要求と国家の要求は対立する。自分の健康に強い関心をもつ社会ほど、芸術は厳しく監視される。個人は奴隷のような仕打ちへの反抗を心にしまっておくことができるが、作家はそれを表明しなければならない。

 かつて共産党は漠然とした夢想のようなカフカを燃やさねばならないと考えた。秦の始皇帝や初代異端審問所長トルケマダからは遠くなったが、「国家の利益と芸術の間の争いには、出口のないことは明らかである」。

 ところが、これも変わりつつあるのだろうか。もしこの先、社会が文学を支配しようとしたら、作家は反抗しなければならない。これはおわらない争闘である。

 ロマン主義が継承され、芸術家は社会に反逆することが当たり前になる。そしてジュネ、ただの泥棒が称賛され、のろわれたパンテオンに祭られる。芸術家は、一方、国家による押し付けはなにも生み出さないと主張する。だが、芸術の形式だけがすべてなら、どんな思想にも適応できるはずである。ダンテや大聖堂は厳しい教会の支配から生まれた。

 「結局のところ、芸術が純粋の芸術でしかないのであれば、知的統制をうけるといって恐れる必要はないであろう」、国家は霊感の統一を行うだけである。マリアを青空の中に描くのも、ある元首を決まった服装で描けと命じられるのも同じである。近代以前の芸術のほとんどは特定の宗教、国家、君主に奉仕するものである。

 ――それに、絵画の美しさは題材によるものではない、と繰り返しいっているのはだれなのか。

 「偉大な芸術とは、ある崇高さ、至上の慎重さ、特に統一調和、そういうものによって印づけられたものであって、全員一致のない時代の、混乱した、慎みのない、不調和な産物には、到底達することのできないものである」。

 唯美主義者は独立を要求しながら、その自由の使い道を知らない。一方、ある者にとっては、「芸術は彼の尊敬する真理に仕える一手段である」。芸術は倫理に比べて自由を享受できる性質をもつ。芸術は見せかけの美がほとんどすべてだが、倫理は見せかけ、形式だけでは通用しない。

 

 第二部 内的な領域、人間の描写

 「人間の中には偉大さと犠牲を求める心が自ら進んで現れる、ということをことさらに無視するのは、欺くことである」。一度裏切られたバカ正直者は、こんどは世界をバラ色ではなく暗黒だと考える。「有徳な人びとには、幸福な人たちと同じように、話がないのだと考えなくてはならないのだろうか」。

 「人間を悪く言うことは、作家たちの名誉を確実なものにする」。

 歴史家たちは、戦闘や虐殺のほうにずっと活気を与えてきた。

 著者は考える、深さについてあやまった認識をもっているのではないか。

 ――人間を扱う時の深さというのは、人間をその最も広いひろがりの中において、彼の持つ暗い面、明るい面の何ものをも見落とすことなく、理解することである。

 小説は、他の芸術に比べて純粋な美から離れている。猥褻小説は、人間を昆虫として扱い、彼らの尊厳を奪っている。登場人物は人間ではなくものとして扱われる。

 「現代の小説は進んで百科事典や、社会学や、医学とか、心理学とかの論文や、さらに一そうしばしば新聞記事のようなものになる」。

 文学は、人間の科学になろうとしている。だが、人間の解剖図をつくるのは科学の仕事である。

 「小説は、説得力のない個別研究を作り出すことにしか、決して成功しないであろう」。

 科学は一般法則に到るが、小説は歴史的な複雑性へと向かう。

 現代の小説家は芸術と科学どちらをも得ようとしているが、両方で敗北する運命である。スタイル、形式こそ芸術の最も重要な目的の一つである。彼は非常に保守的である――平凡なものから模倣できないものを引き出すということ。しかもこれ以上にむずかしい務めはない。

 「わたしは作家に、人間が知性と意志を持っている、ということを思い出してくれるよう強く望む」。

 努力がないなら重力にひかれるだけだ。

 「倫理は人が抵抗や、誘惑に打ち勝つ時にしか存在しない」。

 

 第三部 言語の領域、言語の使用

 言語の通常の使用と、文学的使用とのあいだに明確な境界はない。あいまいな言葉を好む傾向……食卓とかツバメとかいうよりは、内在的、超越、正義といったほうがお互いにバカ間違いをしてくれる。

 「言葉がその意味を目的としてではなく、それが与える効果を目的として使用されているのである」。

 実体のない言葉を追放すること。

 理論の体系……口をあけた観衆の前に、ことばを弄する香具師があらわれる。

 「理屈では群衆がほとんど動かないのを人は十分知っている。絶叫し、同じ叫びを何度も強く繰り返した方が良い」。

 ――別のものは理論体系を持ち出すのだが、それはすべてのことに答え、全宇宙の中に、それによってたちどころに説明されないような現象はない、というような理論体系である。大概の者を誘惑するのに、これ以上のものは必要でない。

 

 言葉は正確に用いられなければ、人をだます道具になる……孔子曰く、国家の平和を維持するには「名を正しくすることである……名づけ方が不正確であれば、話は支離滅裂になる。話が支離滅裂であれば、物事はうまく行かない……」。

 「めいめいに自由の固定観念を与えることは、めいめいを自由にするのではなく、奴隷にするのではないか、とわたしは強く恐れる」。

 

 第四部 文学の領域、書くという職業

 言語を使う職人は、自由にことばを行使する権利を得るのでなく、むしろ厳しい義務を課される。生活が「無限に繰り返される無限の行為を含んで」いるのにたいし、「文学においては、人はあらゆる繰り返し、少なくとも、明らかな繰り返しを避ける。正式に著者の名前と発表の日付をしるされた、おのおのの作品は、いつでも独特のものでなくてはならない」。

 彼は形式の美しさを、内容の価値に添加するべきだと考える。曰く形式によって内容の醜さを置き換えてはならない。

 「良い文体は、忠実さと同じように、信頼をよび起す」。

 倫理は、人間同士の信頼を増加させるのに役立ち、人間同士の交流を可能にする。

 「詩はこのように、文学の中では、本質的に最も造形芸術に近い分野である」。

 純粋な詩と絵画は音楽に近づく。音楽は「形象や言葉と違って、それ自身をしか表現しない」。だが言葉は意味を持ち、その意味は芸術の範疇をとびだしてしまう。

 純粋詩、絶対詩は支離滅裂で意味をもたぬものになる、そういうものをつくろうと目指すのだから。散文もこれに負けじとついてきて、言語への攻撃をはじめた。ブルトン、プレヴェール、ジョイスなど。

 ――あたかも彼らには、言語を虐待することしか、することがないかのようである……

 言語実験を繰り返す人間たちは、カイヨワによれば道具をおもちゃにする子供である。それはやがて飽きられる。作家の言語にたいする義務は、たえず劣化し、惰性になり、ゆるんでいく言葉をしっかりと手入れすることである。手入れだけを行う職人ではなく、その磨かれた言葉を用いてなにかを伝えなければならない。

 「芸術家の倫理、まして作家の倫理は、ほとんど無限の広がりを持ち、その意図するところの大きさと共に増加し、あるいは減少するのである、と。作家がより強力な作品を書こうと熱望すれば、掟はそれだけ多くなる」。

 「作品が野心的なものであればあるほど、わたしはそれに対して、いよいよ多くを要求する」。

 作品には、たんに興味以上の啓示をもたらすものが存在する。それらが文学の側面においても際立ったものであることがある。

 美と善どちらにより重きを置くかはそれぞれの問題である。美は聖人君子にも泥棒盗賊にも味方する。