うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『文学の思い上がり』カイヨワ その1

 興味深い題名、『戦争論』のカイヨワによる文学論。題名だけで、何か怒られるのではないか、という気分になる。

 文学にあらわれる有害な兆候を論ずる。

 これだけ文学に重きがおかれていた時代というのも、隔世の感がある。現在、文学は落ち目の娯楽の1つにすぎない。文学が反抗的だろうと、悪魔の手先だろうと、ほほえましいととられるようになった。

 カイヨワは唯美主義者への警告を発する。

 

 

  すぐれた作家たちは「孤独と無償性へとむかう文学の自然の傾向を、極端なものにしてしまう……もはや作品は人を驚かすだけでは不十分で、秘儀的であることが要求される……こうして詩は、感動拒否によって、非合理的なものとなった」。

 まずこの芸術としての文学という類型は、人間を追放する。

 「反対に、文学が人間に関心をもち、人びとに関心を持たせようとするとき、今度は芸術がそこからしめ出される……あきらめてしまった著者たちや、恥知らずの著者たちが、多くのお客を同時に満足させねばならぬ複雑な産業に奉仕して、ためらいも不平もなく、その創作物をゆがめている」、「感傷的な小説からエロチックな文学にいたるまで、成功は常に分泌腺、涙腺、その他の腺に、働きかけることにある。芸術はどうかといえば、芸術はそのさい材料の並べ方に関する一つの科学に、そしてある一定量の職業的知識にすぎないものになりさがる」。

 この二極をうまく融合させたのがコンラッドサンテグジュペリだが、彼らは「エゴイスト的な文学を嫌悪していた」。

 ――魂を失ったような文学、ずるい仕方で人々の心を職業的義務や、不変の悩みや、日常的な喜びからそらせ、さらにそうしたものを軽蔑したり、憎んだりするようにしむける文学を嫌悪したのである。彼ら自身は、それを専売にしたわけではないけれども、もっと人間的な文学、もっと責任感のある著者がもっと多くの同情を大衆の苦しみに示すような文学の模範を示したのであった。

 バベルの塔の挿話にたとえて話をはじめる。反俗的な芸術至上主義者は、地上の人間を軽蔑するバベルの塔の建設者である。彼ら職人は塔が崩壊したあともわけのわからぬ言語をつぶやいて瓦礫を積み上げようとする。

 第一編 文学死にひんす 文学ついに死す

 文学者がもっとも文学を軽蔑する傾向にある。文学者が、文学を「自分にとってはすべてであり、世界にとっては無であると考える方が、彼には都合が良い」。以後彼は「今後は調子はずれの音を出して、勝手な独創性で人目に立とうと努める」。

 ――次第に作家は、病的なあるいは不自然な感覚に、薬品による幻覚に、精神錯乱の苦しみと目くるめきに力を借りようとするに至る。

 幻覚は奇怪で、交換不可能だから、読者をその世界に閉じ込めることができる。幻想は、悪、闇からでなくては気に入られない。現実を軽視し、あらたなる現実を詩によってつくりだそうとする。詩人は言葉のうえでだけ、社会に全面的に反抗する。

 「卓越は他人より上手にすることを命じるが、独創性は他人と違ったことをすることを命じる」。

 ――確かに、人が一切を軽蔑するなら、称賛すべき何が残るだろうか。人が最初から世界を無価値なものにするなら、文学は不可能になる。

 文学や芸術のかなりの部分が、約束と規律によって占められていることが、彼らを憎悪に走らせる。人はふつう、文学作品をまじめに受け取らないよう注意する。

 「美術はこのように一種の着飾った幾何学のようなものである。そこでは色と、音と、身振りが図形に衣装をつける」。だが言葉が加わるとそうはいかない。ことばは意味をもたざるをえない。

 ――彼らがその伝えようと欲することをうまく人に理解させ得た時にのみ、彼らは人に興味を持たせることができる……彼らがどんなに慎み深くしていても、人は彼らを手本にしたり、あるいは彼らの作品からあらゆる種類の忠告を引き出す。

 従属するなとといても、人がそれに感心し、ついてくる。よって作家は無限の責任を負っている。一九三〇年代から一九五〇年代にかけて、「人間から、その義務についての意識のみでなく、能力についての意識までも奪い去る教義が、一度にこんなに多く現れたことは恐らくなかったであろう」。

 理性と意志とにたいする軽蔑、つまり理解と選択の放棄がもてはやされた。マラルメブルトン、ヴァレリー、ジイド、ランボーロートレアモン、「彼らは危険も義務も免れた、彼らの芸術そのものと同じような、贅沢ずくめの生活を送っていた」。

 だが、文学は「例外的なまでの精密さ」に達していた。魂の動きの研究は発展した。「彼らは病人や、気違いを、医者から借りて来るかのようであった」。

 ――この退屈で、暇な作家あるいは読者たちは、疑いもなく語るに価するようなものはどんなものも持たないので、主人公たちと全く同じように、尽きることのない、むなしい内面生活にかたむいて行っていたからである。

 「弱さと、その言い分けを描くのに没頭している文学」、カイヨワはこの傾向を「行き過ぎ」と名づける。それは作家が生活に関心がないからだ。

 「著者でしかなく、また言葉にしか感動をうけない著者の作り出すのは、当然こうした文学でなくてはならない」。

 現実での力がなくなる一方、ことばでは「どんな気違いじみたことでも説教するようになる。彼こそ完全な文学者、すなわち、言葉の人間である」。

 社会は無作法をあるていど許容するから、文学がそれを正確に描けば、汚れた風俗でいっぱいになる。文学者曰く、賢明、英雄的性格、神聖というのは嘘なので、文学はこれを問題にすべきでない。芸術が凡俗で卑しいことを書けば、彼らは自分もこういうことをしていいのだと考えるようになる。

 文学者はバベルの塔を建てようとした。だが、彼らが生かされているのは彼らの軽蔑するところである地上によってである。技術は閉鎖的な環境でも発展するが、倫理は他個体とつながっていなければ消えてしまう。倫理を軽視する文学者は、やがて美学にも意義を感じなくなった。規律と自由がなくなり文学は崩壊した。全体主義に疑いがうまれるのと同じく、文学は「専制と虚無主義によって終わる」。

 芸術のために自分の義務を免れ、やがて芸術にたいする義務も免れる。さいごに自分の嫌悪を表明する義務を感じる。