うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『プレクサス』ヘンリー・ミラー その1

 『薔薇色の十字架』第二部。
 「過去は、それが失敗や挫折の文字を綴るかぎり、非存在のまぼろしにすぎないのである」。

 彼は近所の図書館で悪名を馳せた。

 「ぼくはいつも貸し出し期限超過だとか、紛失(といっても実はぼくの書棚に鎮座ましましていたのだが)だとか、ページの切り取りだとか、そういうことで多額の罰金を払わされていた」。

 奇怪な人物が次から次へと出現する。野心家で嫌われ者、電信会社の支局をたらいまわしにされるオリンスキーを、ミラーは責めたてる。

 「将来の輝かしい希望なんて、聞きたくもない……おれが聞きたいのは、ただひとつ……どうしてきみはいまみたいな人間になったのかということだ……鼻つまみの疫病神に……」、「この世のなかに、ただのひとりでも、きみのことを好きだといった人間がいるかね? さあ、答えてくれ!」

 こういう人間は密偵や死刑執行吏に向いているという。

 聖書のことば「そのころはイスラエルに神なかりしかば、おのおのその眼に善しと見ゆるところをなせり」、これが理想の、幸福な世界である。本を読んで感動的な文章にぶつかることは「他者の精神で心がいっぱいに満たされる」ことである、他者とは別の自我である。

 ――前よりも孤独でありながら、かえってそれまでになかったほど世界と密接に結びついている。それと合体するのだ。急にはっきりとわかってくる――神が世界をつくったとき、神はそれをうち捨てて辺土(リンボー)でじっと傍観していたわけではないということが。神は世界をつくってそのなかに入った。これが創造の意味なのだ。

 「ぼくはもう二度と他人のためには働くまいと誓った。絶対に他人からの命令は受けまい。世間の仕事は他人さまへの忠義だてにすぎない――おれはもうごめんだ。おれには才能がある――それを大事に育てるのだ。おれは作家になる。さもなければ餓死するだけだ」

 作家修行時代の試行錯誤がつづく。なぜ話すときと書くときで別人のようになってしまうのか。アンドレーエフ、ゴーガン『ノアノア』。

 

 ――作家にとって……重要なことは、手当たりしだいに、いわばがむしゃらに読むことである……ふつうの読者なら平気で見過ごしてしまうたったひとつの小さな単語が、(作家にとっては)まさに金鉱にもひとしい価値をもつ場合がある。

 図書館の本を「手間をはぶくためにもっとも必要なページを破りとった」。まるで大学教授かなにかのふりをして嘘っぱちでたらめをまくしたて、都合が悪くなると逃走するという遊びを繰り返していた。

 「知識欲と好奇心はぼくを一度に四方八方へと駆り立てた」。

 ミラー曰く、ルネサンスの芸術家たちは「職人、放浪者、犯罪人、戦士、冒険家、詩人、画家、音楽家、彫刻家、建築家、狂信者、篤信家などを、それぞれ一身に兼ねていたのではないだろうか?」

 彼はいまや無職となり、毎日図書館や博物館に討ち入り、妻の収入を吸いとっていた。

 ミラーの少年時代、父、祖父の話。第二次世界大戦南北戦争はミラーとかかわっていた。ゴッホは「絵の具の氾濫」だとこけにされたがそれはまさに正確だった。

 「言葉の氾濫」。ゴッホをこけにするのは「神の子に向かって「だが、あいつはあまりにも神らしさが鼻につく」というようなものではないか」。彼は日常的なものと親しんだから、のちにそれを「神聖な実在の光に当てて描き出すことができるようになった」。

 「第一次と第二次の世界大戦のあいだは芸術の実り豊かな時期であった。ぼくの自己が形成されたのは、世界がふたたび根底から揺り動かされようとしているこの時代においてであった」。

 芸術家への冷淡な態度は時間がすすむにつれて進行している。彼はゴッホの時代より自分が人間の存在をおびやかす世界にいると感じた。

 ――第二次大戦後の今日……地球が太古の地質時代に経験したと同じような激動を、いまは人間の精神が経験している。

 「未来の人間のために働くことをやめよ! わずらわしい労役をいっさい捨てて創造せよ! 創造は遊びであり、遊びは神聖なのだから」。

 ニーチェゴッホランボーは「天球と同じ運命をたどる人間太陽なのだ」。

 ――理想を追い求めるものを待ちもうけているのは、精神病院か十字架だ。

 「われわれは、人間自身のものでありながら自らを否定しつづけてきた永遠の生命の壮大さを感得する」。

 人間は偉大なり、彼は人間を、非人間的な、畏怖の対象とした。

 

プレクサス―薔薇色の十字架刑〈2〉 (ヘンリー・ミラー・コレクション)

プレクサス―薔薇色の十字架刑〈2〉 (ヘンリー・ミラー・コレクション)