ヨーロッパを中心に、本の成立と発展をたどる本。カラーの図がたくさん入っておりおもしろい。
Ⅰ ペンと文字
はじめ、ローマや中世においては下書きには蝋板が使われた(タブラ、テーブルの語源である)。木枠に蜜蝋を注ぎ、そこにスタイルスとよばれる鉄筆(青銅、銅)で傷をつけて書くのだ。
中世においては角ばって読みにくいゴシック体が用いられたが、現在普及しているローマン字体はローマ時代に生れたものである。書体も、流行と同じように一定の周期でくりかえす。
文字の発明者、印刷の功労者たち。アルディス・マヌティウスは小さい字でも読みやすいイタリック体を生み出し、これはいまのレクラム文庫やエブリマンズ・ライブラリの原点となっている。低学歴・庶民出身のパック(いたずらっこ)ジョン・ベルは、古典文学をつぎつぎと印刷した。彼はそれまで使われていたロング・エス(Fに似ているのでfuch,fhallに見間違える)を廃止し、小文字のsを採用した。
「時として歴史は、こうした学歴や家柄とはまったく無関係な偉人の手によって形作られる」。
彼の出版したパンテオンは、神の辞典である。1700年代の英語だが、十分読める。
ウィリアム・ピカリング、19cの代表的印刷業者は『釣魚大全』を出版した。「人間らしい活字」の推奨。ウィリアム・モリスとバーン・ジョーンズによる書物芸術の復興。文字も奥が深い。
Ⅱ 写本と写字生
教師による読み上げと、それを口述筆記する学生という形は、イギリスの大学ではいまも一般的だ。これはギリシア以来の伝統である。日本では近代化以前の藩学や寺子屋、漢学塾もそうだった。
「口授という形こそ、昔からの「講義」の真髄だったのではないだろうか」。
文学の受容も、もともと音読を通してだった。活版印刷の登場とともに、黙読が主流になっていく。
羊皮紙(parchment)は、紀元前2世紀、小アジアのペルガメヌム(pergamenum)の王が考案したことにより生れる。子牛の皮を使ったものはvellumという。しかしどちらがどちらかは、完成品を見ても製作者本人にしかわからないという。
中世、写字生の地位は高かった。並列という絵画の手法。
Ⅲ 印刷と製本
活版印刷が普及してからも、複雑な工程を必要とする製本は長く手作業で行われた。版元製本が行われるのは産業革命以後、ペーパーバック型が生れるのは20世紀を待たねばならない。
――たとえば現代のフランスのように、今でも仮綴じのまま出版しているのは、購買者が自宅の応接間の色調に合わせて製本させる習慣が残っているからであり、書物についての伝統的な思い入れも依然として根強いことを示している。
装丁、製本を購買者側がやることにはメリットがある。単価が安いのでつまらなかったら捨てればいいし、自己製本によって本の内容も忘れにくくなるのだ。
Ⅳ ミネルヴァのいる場所
印刷が普及するにつれて、本と宣伝広告は密接なつながりをもちはじめた。行商が廉価本を売ってまわるときは、本を樽に入れて運ぶのだった。防水も完璧だからだ(コンテナ輸送の先駆)。当時は図書館や、ネット通販などなかったから、田舎の人間にとって本の行商人は欠かせない存在だった。イギリスではchapmanという。彼らは「ブロードサイド・バラッド」と呼ばれる俗謡、広告、説教をあつめた冊子や、聖像画、地図などを取り扱っていた。
近代のイギリスの盛り場といえばフェア(定期市)と死刑見物だ。情報の速度というものがいまよりもずっと緩慢だったようだ。書物の露天商は繁盛したが、地味で儲けのすくない仕事だった。
20世紀になり、情報の入手が容易になると、文化は大衆化し、書店も大衆化した。オックスフォードの学生が愛用するブラックウェルズ古書店。子供も書店に行くようになり、万引きしたりスリをやる子供も出現した(『オリバー・トゥイスト』)。
「世紀末ロンドンの典型的な街角の風景である」。
知恵の女神アテナ(ローマ名ミネルヴァ)はよく書店や本の守り神とされた。もっとも航行速度の速いマーキュリー(水星)はメッセンジャーの神で、情報の使者にたとえられる。
サザビーやクリスティーなどの有名なオークションは17世紀末にはじまった。イギリス古書業界の帝王バーナード・クォリッチは、日本橋丸善と一世紀以上取引をつづけている。フィラデルフィアではローゼンバッハ、ニューヨークではクラウスが古書業界に君臨した。
フランクフルトは中世からメッセ(大きな定期市)の開かれる都市だった。
Ⅴ 本と人々
かつての芸術はすべてパトロンに依存していた。ロマン派以後の音楽家は家庭教師や楽譜出版で糊口をしのいだ。
「芸術家たちの自立への道は、茨の道であった」。
本の読みすぎといえば、ドン・キホーテである。18世紀、リチャードソンらによって「小説novel」というあたらしい文学形態が生れる。本の虫……bookworm.
cartography地図作成術は海洋国家イギリスにとって重要なものだった。著者の誕生とともに、文化の大衆性の問題に向き合うことになった。
1928年、ジェイムズ・マリー出版局長によりOEDが刊行される。
――ロンドンのグラッブ・ストリートと呼ばれる一角は、もともと貧しい職人や生活に困った人々の居住地区だったが、18世紀になると、この一帯に、こうした貧しい文人が住みつき、"grubstreet"は「三文文士」や「へっぽこ詩人」を意味する語となってしまう。
書籍の内容よりも、売れるか売れないかの問題に比重がかかるようになる。18世紀イギリスは「風刺の時代」といわれ、その代表は「愚物列伝」である。
「聞かなかったことにする」ならまだいいが、ときには焚書坑儒などがおこなわれることもある。批評という行為はむかしからあったが、書物の大衆化につれて批評を専門におこなう批評家が出現した。批評家の風刺画は、まるで本に群がるガナードだ。
Ⅵ 学校と図書館
――もしアーサー王が実在したとすれば、ケンブリッジが最古の大学となってしまう。実際にはオクスフォードで起こった、町の人々(タウン)と学生(ガウン)のいがみあいに嫌気がさした一部の学者が、14世紀にケンブリッジに移って大学を作ったのである。
14世紀後半のボローニャ大学の絵を見ると、この時代から学生はまともに講義を聴いていないことがわかる。教科書をもってないものやしゃべくるものは皆後ろに座る。
児童教育用のホーンブック(羽子板型の本)はイギリスで使用された。じっさいにバドミントンに使われることもあったようだ。
アレクサンドリアはアレクサンドロス大王により紀元前331年建設されのちプトレマイオス朝の首都となり、ヘレニズム文化の中心地となった。ローマ帝政期にはネオプラトニズム、グノーシス思想、ユダヤ・キリスト教神学の本拠地となる。646年アラブ人に攻略されると、文化はカイロに移ってしまう。
アレキサンドリア図書館は完成したようだ。大学図書館の拡張。音楽史を書いたチャールズ・バーニーはかつて大英図書館の本を盗み、晩年つぐないのために自分の蔵書をすべて寄付した。鎖つき図書館。
Ⅶ 本をめぐって
フランス語のlibraire(書店)をもとにlibraryをはじめに用いたのはチョーサーだといわれている。スペイン語の書店はlibreriaだが、libr-はもともと「樹皮」の意である。bookの原義はゲルマン諸語でブナの木を意味するbocである。
ラテン語、ギリシア語起源のBible,biblia,biblos,bibliotheca,bibliotheque. paperの語源はpapyrusである。
ではbookは「本」か「書物」「図書」か「書」か。王立科学院(royal society)。ジョンソン博士の辞書は権威となっていたから、『虚栄の市』では悲惨な末路をたどる。
「せっかくピンカートン女史から贈られたジョンソンの辞書を、セドレー家の令嬢アミーリアは友人のベッキーへ「厄介払い」し、しかもそのベッキーはそれを庭へ投げ捨ててしまうのである」。
――14世紀の堕落した教会が、神の教えを自分たちで独占し、大衆が接近できないように、ラテン語のウルガータ聖書に執着する……
それに反抗したのがウィクリフらの英訳聖書である。
ベン・ジョンソン曰く「読者よ、彼の顔を見ずに彼の本を見よreader, look Not on his picture, but his book. 」
ブレイズ『書物の敵』。
偽作者のつくった本を、オークションで大金を出して買ってしまった者がいた。