うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『第二次世界大戦下のヨーロッパ』笹本駿二

 ポーランド電撃戦では、奇襲によって、開戦二日目になるとポーランド空軍は消滅した。ポーランド騎兵はドイツ戦車に切り込みを行った。英仏はポーランドをけしかけて結局見殺しにしたのだが、英仏ははじめから助ける気などなかった。

 「ポーランドの運命を決めるのは戦争が終結したあとのことであって、戦争のはじめにおいて、ポーランドが受ける軍事的圧力を軽くしてやるということはそれとは関係のないことである」。

 この見殺し戦略はポーランドには知らされなかったため、彼らはドイツ軍に必死で抵抗したのだった。「偽りの援助の約束」、著者曰く「人間の歴史は不正の堆積である」。

 フランスは士気が低かった。彼らには戦う動機がなく、またドイツもそのようなプロパガンダ(「ダンチヒのために死ぬほど君たちは馬鹿ではないはずだ」)を西部戦線で活用した。最前線のノーマンズランドでは、両国の兵隊が煙草やボンボンを交換し合った。これは「ポニー・ウォー」と呼ばれた。これがフランス陥落の悲劇の胚胎となった。防衛戦に徹してマジノ線にひきこもったことによって、戦線を分断されたのだった。指揮をとったのはガムラン元帥だ。

 ポーランドチェコスロバキア解体に乗じてテッシン地方を掠め取ったが、この国や、イタリアのような火事場泥棒国家は厳しい戒めをうけたのだった。

 「可哀そうなのはポーランド国民、イタリア国民だった」。

 イタリアはやはり陽気だったという。貧乏だが、楽天家である。当時の日本の外交官には、ヨーロッパ戦争を、自国の国力回復の神風とみる者と、さらなる南進のための帝国膨張の好機とみる者がいた。

 ハンガリーはドイツの協力国となったが、ブダペストでは厭戦の雰囲気に満ちていた。ハンガリー人は戦争がすぐ終わるだろうと軽く見ていたのだ。

 ヒトラー、リッベントロープ首相と、ソ連モロトフの会談で独ソ対立は決定的になる。ソ連はバルカン、バルト地方にたいする強い欲求をもっていた。スターリンフィンランドルーマニア要求と引き換えに三国同盟に加入してやろうとしていたのだが、ヒトラーは既にソ連と戦うことを決めていたようだ。

 「大国ドイツの存続に不可欠な食糧と資源は、これを東方に求めなければならない、という考え、一九世紀以来のドイツ保守勢力に伝統的なこの東方膨張政策が、ナチスの時代にあっても、資本家、軍部、保守的政治家たちから依然として強い支持を受けていた」。

 ソ連を打ち倒しドイツ帝国を築く野望は前世紀からつづくものだった。ヒトラーはこれを「東方への突進」と言った。

 ルーマニアソ連侵攻の起点となり、また地中海はイギリスが握っているので、全バルカンの征服は不可欠だった。親独的なハンガリースロバキアルーマニア三国同盟に加入した。ところがイタリアがギリシャに侵入したため、ユーゴスラヴィアとは微妙な関係になってしまった。結局ユーゴスラヴィアブルガリアも一九四一年二月三国同盟に加入する。ベオグラードで反独軍人のクーデターが起きるが、降伏する。

 小国は大国に左右される。あるハンガリー人曰く「どうもドイツの軍服が目障りだな。奴らの数が増えてくるというのは不吉な前兆だよ。迷惑な話だね」。テレキー首相はドイツにユーゴ懲罰の協力を強いられるが、ハンガリーはユーゴと友好条約を結んでいた。また、もしドイツに協力した場合は宣戦するとイギリスから通告が来る。板ばさみになったテレキー首相は自殺した。この半年前にバルトークナチスを厭ってハンガリーを去っていた。

 スターリンはドイツが戦争を仕掛けることを見抜けなかった。ゾルゲの東京情報も、効果がなかった。チャーチル曰く「あのときのスターリンとかれの人民委員らは、第二次世界大戦中もっともひどく出し抜かれたへまな人間であることを示した」。スターリンはドイツ軍に恐怖を抱いていたようだ。

 

 一九四一年六月二十二日、ナポレオンのロシア侵攻の日に、ドイツ軍はまったくの闇討ちを開始する。ソ連は戦闘準備がまったくできていなかったので、手痛い敗北を蒙った。

 ロシアは退却する。あまりに広い平原のため、ドイツは回りこみや包囲ができなかった。気がつけばドイツ軍はロシアの奥深くに引き込まれていた。指揮官はレープ(北軍)、ボック(中央軍)、ルントシュテット(南軍)。中央軍はモスクワ間近にやってくるが、冬将軍によって後退させられる。冬装備をまったくしていなかったため、重いハンディキャップを背負わされた。ナチ首脳は、ロシアの雪の中に消えたナポレオンの軍勢、グランダルメーを思い起こしたに違いない。

 翌年の冬にはスターリングラードで大敗北を喫し、最後にはソビエトによってベルリンは陥落する。東部戦線は第二次世界大戦最大の戦場だった。日本軍が中国奥地にひきずりこまれたように、ドイツ軍もロシアで泥沼にはまった。

 東部戦線は日米開戦に大きな影響を与えた。当時上院議員のトゥルーマン曰く「もしもドイツが勝ちそうだったらロシアを助け、ロシアが勝ちそうになったらドイツを助ける。こうして双方にできるだけ殺し合いをやらせるがいいのだ」。

 一九四二年、ソ連の冬期攻勢は大きな成果をあげた。

 日米開戦はドイツ人にとっては迷惑な話、「えらいことをやってくれた」と考えられた。ドイツは東部戦線で手一杯な上にアメリカを相手にはできないからだ。ハンガリーはパール・ハーバーに狂喜した。「ヨーロッパのまん中に、たったひとりいるアジア民族」というのがマジャール人アイデンティティだったからだ。

 

 著者はバルカン特派員としてハンガリー、南ポーランド、東部戦線を見ている。ポーランドではゲットーを見物したが、同行のハンガリー人らは皆唖然としていた。ドイツ兵曰くスラブ民族ユダヤ人は絶滅すべきである。イギリスがインドを基点にしたように、大ドイツ帝国は東欧・ロシアを基点にしようとしたのだった。

 

 著者は前線を視察して、砲撃を間近で体験する。迫撃砲は炸裂平面が広く、通常砲弾より人的被害が大きい。ハンガリー軍と赤軍の戦闘。チムのドイツ兵たちは、八月までにスターリングラードを占領して、案内してやると息巻いていた。空襲を避けてこもった防空壕のなかでハンガリー兵とロシア人は合唱した。

 その後、著者を案内したハンガリー軍はスターリングラードの戦いで全滅し、彼を歓迎したハンガリー軍総司令官ヤーニー大将は戦後銃殺刑にされた。

 スターリングラードパウルス大将率いる第六軍は包囲された。大将は危急の事態にあってもなお、撤退のためにヒトラーの許可を仰いだ。

 「ここにあるものといえば、しらみと砲弾だけだ」。

 結局ヒトラーは死守を命じ、第六軍が降服したときには二十五万から十二万人に減っていた。大半は飢え、寒さ、病気で死んだという。著者曰くこの悲劇は「ドイツ的性格」の結果であるという。

 明くる一九四三年、西部戦線の制空権は失われ英軍によるドイツ空襲がはじまった。焼夷弾が高い建物を焼き、そこで火の嵐Firestormが発生する。ドイツ軍五〇〇万対連合軍一〇〇〇万。

 ナチスを支えたのは民衆、とくに膨張主義中産階級だった。狂信的な膨張論者を指導者に迎える下地はできていたのだ。上のものへの忠誠心はドイツ的な徳目であるという。

 当時は、日本にはヒトラーがいないのだからドイツよりは講和がやりやすい、とヨーロッパ人は考えていた。ゲッベルス外相リッベントロープ、反ナチスの軍首脳は講和を望むが、ヒトラーは拒否した。

 一九四四年七月のヒトラー暗殺未遂事件には、ロンメルが加担していた。ヒトラーは、国民的英雄であるロンメルを反逆罪にすることはできなかったので、自決させた。ヒトラーは党本部の爆破を免れ、失敗したクーデター派は全員始末された。このとき、ヒトラー生存の報が伝わったとたん、クーデター派の大半が手を翻してヒトラーの側にまわった。

 ――権力への反逆ということでは、ドイツ人はまったく拙劣であり幼稚であることも痛感される。

 パリでは軍総督が単独で講和を結ぼうとするが、クルーゲ元帥の許可を得られず失敗する。一九四四年十二月、フランスをやぶった「アルデーヌの奇襲」をもういちどやろうと思い立ち、兵をアントワープにむかって突撃させた。著者はこの頃まで15カ月ほどベルリンに滞在していたが、胸に黄色い星をつけたユダヤ人は徐々に減っていったという。

 ドイツは一貫して東部戦線に力を入れていた。また、兵隊たちのあいだには、ソ連につかまればシベリア送りになるが、アメリカならそうひどくはないだろうという感情があった。

 トゥルーマンは強硬な反共論者であり、反共陣営の総大将チャーチルはアメリカで赤渦論を宣伝してまわった。曰く「ゲッベルスになり下がったチャーチル」。

 著者曰く、戦争末期になっても発狂した破壊王ヒトラーを追い払うものがいなかったのは不思議である。

 

 「ドイツの降服でヨーロッパの戦争が終わったあと、遠いアジアの戦争は、ヨーロッパ人の大多数にとっては大した意味を持たなくなっていたのである」。

 ヨーロッパの生んだヒトラーが死んで、ヨーロッパはまた世界の中心ではなくなった。

 

第二次世界大戦下のヨーロッパ (岩波新書)

第二次世界大戦下のヨーロッパ (岩波新書)